「確かにあるのだけど、形になっていない」
そんな想いが言葉として代弁されたとき、ハッとする。
私は待っている
驚嘆のこころがふたたび生まれるのを-ローレンス・ファーリンゲティ
最近一番ハッとしたのはこの言葉だった。
センス・オブ・ワンダーを忘れてはいけないと。
でも「驚嘆のこころが大切なのだよ、君」などと説教がましく言われていたら、
もしかしたらそこまで響かなかったかもしれない。
私は待っている
一人称で語られた言葉は、直接自分に向けて伝えられたことよりも、よっぽど響くことがある。
白状すると、「これは自戒ですが」という前置きをつけておきながら、
実は特定の誰かを思い浮かべていることが時々ある。
押し付けがましさをできるだけ薄れさせようとしながら、
「あの人に届け」と思っている時がある。
そして、これがけっこうよく届く。
「ずるい一人称」だと思う。
「ずるい」と言いながら、同時にそれらはとても「強い」とも思う。
人が深く納得するのは、「自分の力で得た」と思えた時が多い。
だから、ウィンストン・チャーチルのこの言葉は至言だと思う。
I’m always ready to learn, although I do not always like being taught.
私はいつでも学ぶことをいとわないが、教えられるのをいつも好むわけではない。-ウィンストン・チャーチル
ひねくれている(笑)
だけど、とても真実に近いと思う。
誰かが一人称で語っている言葉を聞きながら、
他の誰でもない自分自身が取捨選択し、自分自身が解釈し、その結果腑に落ちる。
その時、「教わる」こと以上の「学び」がそこに生まれる。
一人称で語られた言葉は、一人称で納得しやすい。
そんな気がする。
そうは言いながら、尊敬する人たちを思い浮かべると、
人から直接的に指摘されたことも素直に受け止める力を持っている。
鵜呑みにするという意味ではなく、文字通り、受け流さずに「受け止める」。
受け止めたものを保持しながら、本当は心の中で多くの葛藤があるのかもしれない。
だけどいつも、指摘される悔しさよりも、学べる喜びが勝っている。
そうありたいと思う。
でも、なかなかそうあれないことが多い。
「自分で気づくから大丈夫です」
余裕がないときほど、そうやって頑なになる。
そういう自分に気付いては、ポカンと拳骨をくらわせたくなる。
そんないらん頑なさにとらわれているうちは、まだまだちっとも本気になれていないのだと。
物語が好きな理由は、もしかしたらそんな「ひねくれた心」にあるのかもしれない。
誤解を恐れずに言えば、「小説家はずるい」と思うことがある。(褒め言葉のつもりで)
中には説教がましい作品もあるけど、優れた作家は「登場人物本人の思想」として、メッセージをうまく溶け込ませる。
読み手は、作家から「伝えられた」のではなく、自分で「すくい取った」と感じる。
もっと優れた小説家は、読み手の内側からそれを「呼び起こす」。
かつて小学校サッカーのコーチや家庭教師のアルバイトをやっていた。
その時はいつも、
「コーチのおかげ!」「先生のおかげ!」
と言わせたらダメだと思っていた。
「自分でできた!」
そう言ってもらいたいと。
一人称で語ること。
一人称で納得してもらうこと。
ずるくて強い一人称。
でも、ここぞという時の「お前はな!」の力も忘れてはいけないと思う。
これも強烈だから。
これがバシッと響いた時は、ここまで書いてきたような一人称の自己効力感なんて、
とてもチンケでバカバカしいものだと思うことすらある。
結局、何人称が一番強いのかなんてわからない。
じゃんけんみたいなものなのかもしれない。
明言を避けた。
これは、ずるい結論だ。
ずるくて弱い結論だ。