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もとに戻ることがすべてではない。:『傷を愛せるか』

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「待っていてくれた」ような本

傷を抱えながら生きるということについて、学術論文ではこぼれおちてしまうようなものを、すくい取ってみよう。

あとがきに書かれている著者の言葉。まさにそれを体現した一冊だった。いろいろな思いがすくい取られたので、少しまとめてみる。

傷を愛せるか
傷を愛せるか』(宮地尚子著 / 大月書店)

医者のように、専門性を備え、弱い立場にある人たちと向き合う仕事では、治療者側が感じる無力感や罪悪感を表に出してはいけない…なんとなく、そんな「強がらせ」のような固定観念や空気感がある気がする。

そんな中で、精神科医であり教授でもある著者の宮地さんは、自身も傷つくということを隠さない。その痛さ、もどかしさ、無力感に蓋をしていない。そんな風に思えた。

だから、言葉がすごく「近い」。医者や研究者らしく客観的であるよりも、主観や実感が伴う洗練された言葉が紡がれていて、とてもやさしい。

なんとなく、「待っていてくれた」と感じる本だった。

 

「傷そのもの」よりも、「傷の周辺」の痛み

アカデミックではなく、短編のエッセイ集という形の本なので、とても読みやすい。どの章にも感銘を受けたけど、その中で特に「ヴァルネラビリティ(脆弱性)」に関する考察はすごく考えさせられた。「男性の性被害と社会政策」というテーマで研究をしていた著者は、こんなことを書いている。

男性の被害者を見ていると、性被害そのものよりも、そのために傷ついた「男らしさ」を必死で取り戻そうとすることのほうが、逆に傷を深めていってしまうという印象を受ける。(中略)ヴァルネラブルであってはいけないという縛りこそ、ヴァルネラビリティになってしまうという逆説が、そこにはある。(p.110)

傷に付随する焦燥感や圧迫感。そこから新たな傷が生まれていく。多くの人が本当に苦しむのは、「傷そのもの」以上に、「傷の周辺」なのではないかと思った。

傷病者に対する励ましの言葉の中に、「そんな傷、大丈夫だよ」「私も同じ病気をしたけど、大丈夫だったよ」という声がある。声をかけられた人の状況や、声をかけてくれた人との関係性によって、「そうか、大丈夫なのか」と安心できることも、もちろんあると思う。

だけど時に、その言葉をかける人が見ているのは「傷そのもの」だけになっているような気がして、とても診断的に聞こえてしまうことがある。傷病者が抱える、その人ごとに違う「傷の周辺」の苦しみを見ようとしているのだろうか。医学的・科学的に診断することのできない「傷の周辺」に寄り添おうとしているのだろうか。時々そんな風に思うことがある。

その人の「傷の周辺」で、何が起きているのか。どんな感情が巻き起こっているのか。その視点を忘れたくない、と強く思った。

 

何重にも覆いかぶせてきた黒い布の外側に、包帯を巻く

上記の引用の中でもう一つ、「必死で取り戻そうとする」という言葉が気になった。何事においても、「戻りたい」「取り戻したい」という衝動と向き合うには、大変なパワーがいると思う。

それを備えていられた頃との落差による、どうしようもない無力感。今の自分ではダメだという焦燥感。「こうありたい」という未来への希望ではなく、「こうあるべき」という過去への義務感、それに付随する疲弊感。「取り戻したいと思うほど過去の自分は優れていたのか」という、ちらつく傲慢さに対する猜疑心と嫌悪感。

そういう負の気持ちが増幅していって、まさに「ヴァルネラブルであってはいけない」という重圧から、よりヴァルネラブルになって自滅していく。

自分が痛んでいること、それ自体に対する罪悪感を抱くこと。罪悪感に囚われている自分を見て、さらに嫌悪感に染められていくこと。そうやって、何重にも自分を苦しめる思考が覆いかぶさっていくこと。

この連鎖ほどつらいことはない、と思う。

「弱さ」や「傷」を、いけないもの、恥ずべきことだと思わないでいい。いけないもの、恥ずべきことと思わずにはいられない自分がいるのなら、そんな自分をも包むようにいたわればいい。ヴァルネラビリティも含めて、すべて抱えたままでいい。

そんな感覚が、この本を読み進めるにつれてじわじわと染み込んできた。

「抱えたまま」でいるのであれば、相変わらず傷は痛むのではないか、とは思う。だけど、連鎖のどこかで「それすらも抱えたままでいていい」と思うことができれば、次々と覆いかぶさってくる自己卑下は、止まるときがくるかもしれない。真っ黒な布を何重にも覆いかぶせてきたその外側に、「もう十分だよ」と、柔らかい包帯が巻かれる。そうして、「ああ、もういいんだ」と思えるときがくるかもしれない。

そういう希望の兆しを与えてくれる本だと思った。

 

もとに戻ることがすべてではない

震災以降、「もとの状態に戻る力」「困難から立ち直る力」というような意味で、「レジリエンス」という言葉に注目が集まった。いくつかの本を読んでみた中で、『レジリエンス 復活力−あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か』(アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー著 / ダイヤモンド社)でなされていた定義が今でも記憶に残っている。

生態学と社会学の分野から表現を借用し、レジリエンスを「システム、企業、個人が極度の状況変化に直面したとき、基本的な目的と健全性を維持する能力」と定義する。(p.10)

「もとに戻る力」以上に、基本的な目的や健全性を「維持する力」であると語られているのは、とても印象に残った。

築きあげてきた家が崩れたのであれば、家をもとの姿のままに立て直し、再現すること(=もとに戻る力)がすべてではない。「安心して暮らせる場所が欲しい」という基本的な目的を思い出せば、「今の」自分にとっての安心に基づいた、新しいタイプの家を建てることに目が向くかもしれない。

落ちてしまった崖を、落ちてきた方向(取り戻したい過去の方向)に登り直すのではなく、未知である反対側の崖を登ってみる意志が生まれるかもしれない。もしくは、崖の下でも暮らしていける方法を見つけ、適応することができるかもしれない。

もとに戻ることがすべてではない。傷をもとに戻すことがすべてではない。少なくとも、「戻さなければ」という重圧に押されて、余計に苦しくなる必要や義務はない。呪縛を解くことに焦らず、まずは呪縛の連鎖をそっと止める。もとの姿に執着するよりも、本当に維持し続けるべき目的と健全性を思い出し、「今」の道を見つける。

もとに戻ることがすべてではない。きっと。

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