ホントのこと

雪のひとひらの重さ

講演をさせていただくときに、ある時から引用するようになった物語がある。

 

 

「雪のひとひらの重さはどれくらいかな」

シジュウカラが野バトに聞いた。

 

「重さなんてないよ」

ハトが答えた。

 

「じゃあ、おもしろい話をしてあげる」

シジュウカラが言った。

 

「モミの木の、幹に近い枝にとまっていると、雪が降りはじめた。

激しくはなく、吹雪のなかにいるような感じでもない。

そんなのじゃなくて、傷つくことも荒々しさもない、

夢のなかにいるような感じの降り方だった。

ほかにすることもなくて、ぼくは小枝や葉に舞い降りる雪をひとひらずつ数えた。

やがて、降り積もった雪の数は正確に三七四万一九五二になった。

そして三七四万一九五三番目の雪が枝の上に落ちたとき、

きみは重さなんてないと言うけど

──枝が折れた」

 

そう言うと、シジュウカラはどこへともなく飛んでいった。

ノアの時代以来その問題に関してとても詳しいハトは、

今の話についてしばらく考えていたが、やがて独りつぶやいた。

 

「もしかしたら、あともう一人だけ誰かが声をあげれば、

世界に平和が訪れるかもしれない」

 

 

シンクロニシティ』という本の最後の場面で、ある女性が語る物語。
どこかの国の民話に原作があるのかどうかは分からない。

「たった“1”の力になんて意味はない」

そう思ってしまうような時には、よく思い出すようにしている。

自分に備わる「たった“1”の力」を疎かにするとき、
自分の前に積もってきた誰かのひとひらずつや、
自分の後に積もっていく誰かのひとひらずつの、
その重さへの敬意までをも失っているのだと。

自分自身の“1”が、最後に枝を折る「決定打」にならなくてもいい。
最後の“1”が劇的な変化を起こしたとしても、
それはその時までのたくさんの“1”の集積があったおかげ。
そう考えれば、決定的じゃない“1”なんてないとも言える。

変化はみんなの積み重ねで起こすもの。

もちろん、誰か一人のとても大きな力であっても変化は起きると思う。
だけど、

1円の寄付であったり、
1票の投票であったり、
1つの思いやりであったり、

向き合っているものの大きさに比べたら重さなんてないかのような小さなものの集積でも、
変えていけるものはきっとある。

周囲の人たちの“1”の力への敬意。
自分自身が持っている“1”の力への敬意。

どちらも大切にしたいと思う。

降ってきた雪を手の平でそっと受けるときのように。
溶けてなくならないようにと願いながら。

 

雪5Fyn Kynd

(シジュウカラでもハトでもなく、アオカケスですが)

記憶の座標と螺旋階段

歳を重ねるごとに「空気」に敏感になっていく自分がいる。

温度感、重さ、肌触り、気怠さ、匂い…

いろんな感覚から、「あの日の空気だ」と、かなりはっきり分かることが多い。
グラデーションのように徐々に緩やかに近づいて来るというよりも、
ある日になるとはっきりと「あっ、今日があの日の空気だ」という感じ。
線を引けるくらい、きちんとした境目があるように思う。

 

そんな日が来ると、どこかをぐるりと一周回って、同じ座標に戻って来た気持ちになる。

その座標には、様々な記憶や思い出が置いてある。
良い思い出の日もあれば、忘れたい記憶の日もある。
その上を、何度何度も、繰り返し通り続ける。

「記憶が蘇る」のではなく、「記憶に戻っていく」。

確固たる自分の今の位置に記憶を引き戻すのではなく、
その座標で待ち続けている記憶に、自分自身が引き込まれていく。

主体は今の自分にではなく、記憶の方にある…

そんな感覚になるときもある。

 

ただ一つ、信じているのは…おそらく「信じたい」のは、
人生は「螺旋階段」だということ。

平面上(X軸とY軸上)の同じ座標の上を何度も通るけれど、
その度ごとに、本当は前回よりも少し高い場所にいる。
周を増すごとに、高く高く。

記憶が置かれた平面座標の上に
時の流れと共に上昇していくZ軸がある。

決して「記憶に戻って来た」のではない。
少し高い場所へ登れているのならば、
たとえ同じ平面座標の上を歩んでいるのだとしても、
主体は記憶ではなく、ちゃんと自分の方にある。
少しずつでも登り続けている、自分という主体がある。

 

螺旋階段2
作:Nick-K (Nikos Koutoulas)

 

そう信じたいからこそ、
登っても登っても同じ場所に戻ってきてしまうトリックアートを見ていると怖くなる時がある。

 

トリックアート 階段

 

トリックに騙されないように。
人生はきっと螺旋階段。

消したくなるような記憶が消えないのと同じくらい、
どんなに些細でもきちんと踏み出してきた歩も消えない。
消せない。

消えないものを積み重ねて、形を整えながら段を作り、
繰り返し同じ座標を回りながらも少しずつ登っていく。

たまらなく「ボレロ」が好きなのは、
それを全身で感じさせてくれる音楽だからだと思う。

 

また6月が終わり、7月がやってきた。
これまでで一番見晴らしの良い7月になるように。

本は意志を持っている。

今、ある本屋さんの、ある店長さんと、ある悪巧みを進めている。
(注:犯罪ではありません。ワクワクする企画です。)

「この本をもっと売りたいんだよね。」

連れて行かれた棚で紹介された本は、仕事で疲れた(特に「ブラック」と言われる会社の)多くのビジネスマンたちを癒してきたそう。

「了解です、勉強しておきます。」

と言ってレジ打ちしてもらい、カバンに詰めた。

 

その夜、久しぶりに会った後輩と夕食を食べながら話をしていると、
何やらその子が思い悩んでいることがまさにその本とぴったり重なっていた。

「あぁ、この本を今日買ったのは、自分が読むためじゃなくて、この子に渡すためだったんだな」

と、だいたい僕はそういう思考に走る。
科学的ではないかもしれないけれど、「シンクロニシティ」は本当にあると思っている。

カバンから取り出して、まだ1ページも開いていないその本を手渡した。

 

「人に本を選ぶ」というのは、本当に緊張する。
人へのプレゼントはよく本にする人間なのだけれど、苦労しなかった試しはない。

お節介になり過ぎていないか。
メッセージが露骨過ぎないか。
興味に合っている本にしようか。
あえて少し分野を外して新しい世界が開けるものにしようか。
良い本なのだけど、もう読んでいるだろうな。
あぁ、この本、中身はドンピシャなのに帯の宣伝文句が…etc

結果、何時間も棚という棚を右往左往する。

 

でも今回は、全く迷いがなかった。
「あ、今だな」と理屈よりも早く感じるときは、素直にそれに従うと大抵正しい。

 

翌日、その子から連絡が来た。

「昨日の本、驚くほどいまの私にぴったりでした」
「ただ、新幹線で読んじゃだめなやつでした笑」
「不思議ですね、ほんとうに。 ゆーやさんもまだ読んでないんですもんね?」

 

本には、二つの意志があると思っている。

一つは、出会うべき人が出会ってくれるまで、辛抱強くじっと待ち続けている忍耐強い意志。
もう一つは、 時々こうやって偶然を起こして自ら届きに行こうとする、行動的な意志。

本に救われたことがある人は、この感覚がなんとなく分かるのではと思う。

本には著者の意志が宿っている。
編集者の意志が宿っている。
営業の意志が宿っている。
印刷会社の意志が、流通業者の意志が…
そして書店員さんの意志が宿っている。

それはもちろんそうなのだけれど、なんというか、本そのものも、意志を持っている。
僕はそんな気がしている。

その意志をもっと感じ取れるようになりたい。

 

届けるべき人に、届けるべき時に、届けるべき本を。

 

そのお手伝いを、もっともっとできるようになりたい。

 

 

店長さんが、その日もう1冊薦めてくれた本がある。

 

聖の青春 (講談社文庫)

 

「将棋の話でね。俺、これ本当に好きなんだよ。」

その一言しか聞いていない。
でも店長さんは面白い人だし、「じゃあそれも読んでみます」。
正直それくらいの気持ちだった。

だけどさっきの話があったから、もしかしてこの本にも何かあるのではないかと勘繰って、今改めて紹介文を見てみた。

 

重い肝臓病を抱え、命懸けで将棋を指す弟子のために、師匠は彼のパンツをも洗った。弟子の名前は村山聖(さとし)。享年29。将棋界の最高峰A級に在籍したままの逝去だった。名人への夢半ばで倒れた“怪童”の一生を、師弟愛、家族愛、ライバルたちとの友情を通して描く感動ノンフィクション。

 

奇しくも来月、僕も聖と同じ年齢を迎える。
そして、7月は僕にとって「命」の月。

あぁ、やっぱり本は意志を持っているんだ、と思った。

 

 

明日は、何週間も前から「予定は入れない。好きなだけ本と原稿に浸る」と決めていた日。
ゆっくりと、本の言葉と意志に向き合おうと思う。

 

あっ、店長、あの本あげちゃいましたけど、僕もちゃんと読みますから。
もう一回レジ打ちしてください。

理想のリーダー

BSの録画でたまたま、ブータンのジグミ・シンゲ・ワンチュク前国王の演説シーンが少し流れた。
そういえば、肉声を聞いたのは初めてだった。

ジグミ・シンゲ・ワンチュク

国をつくるという仕事』でこの方の存在を知ってから、おこがましいことは重々承知だけど、ことあるごとに、

「国王ならこの時どうするだろう?」

と自分に問いかけることが多くなった。

今でも国民に「国王の足跡のない村はない」と語り継がれているほど、
一つひとつの村々を自分の足で歩いて、
一人ひとりの国民の声なき声にまで耳を傾け続けた。
海抜 200メートルのインド国境から、7000メートル級のヒマラヤまで、直線距離がわずか200kmという険しさを考えれば、並大抵の努力じゃないことが分かると思う。

「改革の原点に戻ろうと、国王は旅に出た。一人でも多く民の心を聴こうと、国中を歩き回った。国家安泰の根源を見つめつつ、村から村へと訪れた。そうして百年先の平和な国の姿を展望するとき、行き着くところはいつも同じ、民一人ひとりの幸せだった。」

-『国をつくるという仕事』p.70

「確率は半々、悪王だったらどうする」と、世襲君主制の危うさを見抜いていた国王は、自ら国王弾劾法を発案。
憲法起草委員会の初草案には「国王のために書くな、民のために書け」と落雷。
前代(三世)のジグミ・ドルジ・ワンチュク国王の時代から、権力を自ら放棄して民主制への移行をすすめる。
下記の引用は、その三世について書かれたもの。

ひとりの絶対的支配者が自らの権力に対する重大で明らかな挑戦もないのに、結局は君主制の政治形態そのものの性質を変えてしまうかもしれないような基本的な構造改革を自らの発案で導入したのは、君主制の歴史のなかでは前例のないことであろう」

-『ブータンの政治』p.201

守るべき国家・国民のための、この保身のなさに、いつも感動する。
世界史の教科書に、本気で載せて欲しい。

 

草の根を大事にし、保身なく、心底本気で。

 

このことを書いてくださり、語り続けてくださる『国をつくるという仕事』の著者、元世界銀行副総裁・西水美恵子さんもまた、まさにそのようなリーダー。
心から尊敬している方。

ステマにならないように自社本であることを先にお伝えしておくけど、西水さん著書『国をつくるという仕事』『あなたの中のリーダーへ』は、本当にすべてのリーダーに読んで欲しい本。

そして、今の僕が改めてもう一度読み返すべき本。
今年もそろそろその時期だ。

難儀なことがあった時に読み返すメモ

ちょっと難儀なことがあった。

飲み込むのに時間はかかるだろうけど、
飲み込めるまでどういう自分であれるかが大事だと思う。
腐ってちゃいらんねぇ。(なぜか江戸っ子風)

これまで支えになってきた言葉はなんだったっけと思い、
過去のメモをひっくり返してみた。

メモ魔でよかった…

雑だけど、いくつかまとめてみる。
また時々読み返そう。

 

 

 

本気で生きた恥ずかしい今は、いつか振り返った時の誇りになる。
適当に生きた恵まれた今は、いつか振り返った時の恥になる。

 

「恥」としてへこんでいくのではなく、「学び」として蓄えていけるように。そういう心持ちを。そして、「本当に恥」なことをしないように。つまり、失敗ではなく、不誠実をしないように。

 

凪にあっては、船は動かない。
風があっても、帆を張らなければやはり動かない。
外圧に身を晒しながら、良い方向に受ける身構えを。

 

「こんなはずじゃなかった」にとらわれている時、「どうありたいのか」はちゃんと描けているか。描かずにただ嘆いているだけか。

 

「ありたくない姿」からの出口か。
「ありたい姿」への入り口か。

想像して最初に浮かんだこの二つの姿は、
同じたった一つの絵に描ける、
同じたった一つの扉に過ぎなかった。

その同じ絵にどちらのイメージを重ねるかで、
何かが大きく違ってくる予感がした。

その「何か」が何なのか、また想像してみる。

扉に向かっていく自分の表情。
もしくは後ろ姿。
足取りの軽さ。
心拍の種類。
追われる切迫感ではなく、追いかけるものへの憧れ、待ち遠しさ。

必死に0に戻ろうとしているのか、
快活に0の先へ進もうとしているのか。

自ら絵は描けなくても、そこにある光景に対する解釈は自由だ。
「絵は描けない」という思い込みを壊すのも自由だ。
その自由を使うか使わないかすら自由だ。

ところで、何を選びたいのか。
今、何を選んでいるのか。
選べているのか、選んでしまっているのか。

 

上り坂の途中、辛くて仕方がないとき、上を向くことと同じくらい、下を向くことも大事。長い長い上り坂の頂上は、上ばかり見ていると近づいている気がしない。上を向いて、向かっている方向を確認する。下を向いて、自分が進んでいることを確認する。確かに地面が後退している光景を見る。

 

思考により行動を変えようとするよりも、無理にでも具体的な行動をして思考を引っ張ってもらう方がいい時もあると思う。事実を積み上げ、記憶を塗り替えていく。事実がないと、心は騙せない。

 

同じ行動でも、「何かを回避したい」という気持ちは消耗を生み、「何かを創造したい」という気持ちは活力を生む。

 

見たくもないものに苦しんでいる時は、目を閉じるよりも、もっと目を見開いて美しいものを見る。
聴きたくもない音に苦しんでいる時は、耳をそらすよりも、もっと耳を澄まして美しい音を聴く。
奪われるような美しいものが、たくさんある。

 

「できないこと」を隠れ蓑にして、「できること」まで手放さないように。

 

「あってよかった」とは口が裂けてでも言わないだろう。でも「起きてしまったからには」という気概はなくさないように。

 

自分がダメな時ほど、人を応援するように。

 

夢は、至らない現実によって引き下げられるものじゃない。
現実を引き上げてくれるもの。

 

心の不安定は
エネルギーの不足よりも
エネルギーの使いどころが
見つからないから起こるのかもしれない

 

自信がないからこそ決意した方がいい。決意できるまで自信が醸成されるのを待ってばかりじゃなくて。

 

苦しい時、「苦しみたい」と思っている自分はいないか。
悲しい時、「悲しみたい」と思っている自分はいないか。
絶望している時、「絶望したい」と思っている自分はいないか。
それは一時的に許される。だけど、安住してはいけない。
全て自分の欲求によって生まれている、と考えることは、
自分にコントロールの権利があるととらえる機会になる。
決定は外的要因ではなく、内的解釈によって起きる。

 

日の出に決意、日没に感謝、夜月に望み。

 

 

 

ここからは引用。
素晴らしい本にたくさん恵まれて感謝。

 

 

 

「取越し苦労が胸の奥に巣喰って、隠れた苦痛の種子を蒔いて、落着きなくからだを揺すり、生活の悦びと心の平安を掻き乱す。憂いは次つぎと仮面を変える。お前はお前を襲いもしない一切の不幸に慄え戦き、なくす心配のないもののために愛惜の涙を流す。」

-『ファウスト

 

・「思いちがいをしないでほしいが、希望的想像と同じくらいおろかしく、それよりもたしかにずっと苦しい恐怖の幻想に身をゆだねるほど、私はまだ弱ってはいない。仮にわたしが自分を欺かねばならぬとしたら、信頼の側に身をおくほうがましであろう。そのほうが恐怖の側に身をおく以上に失うことはなく、苦しみはより少ないというものだ。死は間近いが、しかし必ずしもすぐというわけではない。わたしはまだ毎夜、朝を迎える望みをいだいて寝に就く。いましがた話したあの越えがたい限界の内側で、わたしは一歩一歩陣地を守り、何寸かの失地を回復することさえできる。」

・善は悪と同じく習慣となるものであり、かりそめのものも長引き、外面的なものも内部へと浸透すること、仮面も年月がたてば顔そのものになってしまうことをわたしは知っていた

・かつて残忍な主人に足を折られながら呻き声ひとつあげなかったその昔の奴隷、いまは尿砂の病の長い苦しみを忍耐強くこらえているこの虚弱な老人が、わたしには神々しいまでの自由を所有しているように見えた。

-『ハドリアヌス帝の回想

 

・今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である」

・動揺もなく、麻痺もなく、偽善もなく

-『自省録

 

耐えられぬものは殺す、永く続くものは耐えられるものである

-エピクロス

 

What doesn’t kill you makes you stronger.

-フリードリヒ・ニーチェ

 

恐怖の数の方が危険の数より常に多い。

-セネカ

 

アノネ
がんばんなくてもいいからさ
具体的に動くことだね
ともかく具体的に動いてごらん
具体的に動けば
具体的な答えが出るから
かんがえてばかりいると
日がくれちゃうよ

-みつを

 

If you shed tears when you miss the sun, you also miss the stars.

-『タゴール詩集 迷い鳥

 

結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにすぎない(中略)それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。

-『風の歌を聴け

 

傷つくことを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだと、おまえの心に言ってやるがよい。夢を追求している時は、心は決して傷つかない。それは、追求の一瞬一瞬が神との出会いであり、永遠との出会いだからだ。

-『アルケミスト

 

 

 

血肉に変えて、一つひとつ行動にしていこう。

「自虐」の中に潜む「他虐」と向き合う上で。

自分を徹底的に否定するような言葉を吐きたくなる時がある。
多くの場合、わざわざ誰かに聞こえるように。

「そんなことないよ」
「辛いんだね」
「大丈夫だよ」

言って欲しいのだろうなと思う。
言ってもらえなくても、分かっておいてさえもらえればなと。

時に、手元の日記にぶちまけることもある。
誰も見ないところにまで自己否定を綴るのはなぜなのか。

おそらく、「自分を戒めている自分」に安心したいのだと思う。
「少なくとも自分に厳しくしている」という拠り所を一生懸命こしらえている。

「自己否定」には、そういう魅力がある気がする。
好きになれないくせに、頼ってしまう嫌な魅力。

 

あることが頭をよぎるようになってから、
すんでのところで自己否定の言葉を飲み込むことが増えた。

 

テストで40点だったことを大きな声で嘆いた時、
隣にいる30点だった誰かはどう思うだろうか。

病気で動けない自分を蔑んだ時、
同じ病にある人はどう思うだろうか。

 

現状に満足しないで向上心を持つこと。
自身を否定してしまうこと。

この二つは、似ているようで全く違う。

自分のためにも、同様の状況にある誰かのためにも、
「こんな自分では」と否定する代わりに、
「こんな自分でも」と胸張って生きる姿を見せられたら、
それはとても素敵だと思う。

 

欠如そのものは恥ではない。
恥として蔑むか、逆手にとって誇りにするか。
それは扱い方一つなのではないか。

 

「自虐」の中に潜む「他虐」に睨みをきかせる。

同様の状況にある誰かのことまで想像できるからこそ、
ようやく自分を否定しないでいられる。

強さなのか、弱さなのか。

分からない。
分からないけど、たぶん、そんなことはどっちでもいい。

ただ、この気持ちを大切にしたいとだけ思う。

 

公の場での自虐を避ける代わりに、
思いっ切り吐き出せる場を持つことも大切。

「今日はおおいに嘆いてしまえ!」

否定も肯定もせずに、ただ聞いてくれる人を持つこと。
少なくとも自分は、辛い立場にある人にとってそういう人でありたいと思う。

誰かを傷つけないように、誰かに心配かけないように。
そうして時に、過剰な想像力は吐け口を塞いでしまう。
行き場を失った思いを、抱え込んで、溜め込んで、膨らませて、
そのことで自分を潰してしまうのであれば、それもまた辛いこと。

 

想像力の欠如は確かに怖い。
同時に、過剰な想像力による破滅も怖い。

 

思いやる時と、甘える時と。
上手なバランスを。

ずるくて強い一人称

「確かにあるのだけど、形になっていない」
そんな想いが言葉として代弁されたとき、ハッとする。

私は待っている
驚嘆のこころがふたたび生まれるのを

-ローレンス・ファーリンゲティ

最近一番ハッとしたのはこの言葉だった。
センス・オブ・ワンダーを忘れてはいけないと。

でも「驚嘆のこころが大切なのだよ、君」などと説教がましく言われていたら、
もしかしたらそこまで響かなかったかもしれない。

私は待っている

一人称で語られた言葉は、直接自分に向けて伝えられたことよりも、よっぽど響くことがある。

 

白状すると、「これは自戒ですが」という前置きをつけておきながら、
実は特定の誰かを思い浮かべていることが時々ある。
押し付けがましさをできるだけ薄れさせようとしながら、
「あの人に届け」と思っている時がある。
そして、これがけっこうよく届く。

「ずるい一人称」だと思う。

「ずるい」と言いながら、同時にそれらはとても「強い」とも思う。
人が深く納得するのは、「自分の力で得た」と思えた時が多い。

だから、ウィンストン・チャーチルのこの言葉は至言だと思う。

I’m always ready to learn, although I do not always like being taught.
私はいつでも学ぶことをいとわないが、教えられるのをいつも好むわけではない。

-ウィンストン・チャーチル

ひねくれている(笑)
だけど、とても真実に近いと思う。

誰かが一人称で語っている言葉を聞きながら、
他の誰でもない自分自身が取捨選択し、自分自身が解釈し、その結果腑に落ちる。
その時、「教わる」こと以上の「学び」がそこに生まれる。

一人称で語られた言葉は、一人称で納得しやすい。

そんな気がする。

 

そうは言いながら、尊敬する人たちを思い浮かべると、
人から直接的に指摘されたことも素直に受け止める力を持っている。
鵜呑みにするという意味ではなく、文字通り、受け流さずに「受け止める」。
受け止めたものを保持しながら、本当は心の中で多くの葛藤があるのかもしれない。

だけどいつも、指摘される悔しさよりも、学べる喜びが勝っている。

そうありたいと思う。
でも、なかなかそうあれないことが多い。

「自分で気づくから大丈夫です」

余裕がないときほど、そうやって頑なになる。
そういう自分に気付いては、ポカンと拳骨をくらわせたくなる。

そんないらん頑なさにとらわれているうちは、まだまだちっとも本気になれていないのだと。

 

物語が好きな理由は、もしかしたらそんな「ひねくれた心」にあるのかもしれない。

誤解を恐れずに言えば、「小説家はずるい」と思うことがある。(褒め言葉のつもりで)
中には説教がましい作品もあるけど、優れた作家は「登場人物本人の思想」として、メッセージをうまく溶け込ませる。
読み手は、作家から「伝えられた」のではなく、自分で「すくい取った」と感じる。
もっと優れた小説家は、読み手の内側からそれを「呼び起こす」。

 

かつて小学校サッカーのコーチや家庭教師のアルバイトをやっていた。
その時はいつも、

「コーチのおかげ!」「先生のおかげ!」

と言わせたらダメだと思っていた。

「自分でできた!」

そう言ってもらいたいと。

 

一人称で語ること。
一人称で納得してもらうこと。

ずるくて強い一人称。

でも、ここぞという時の「お前はな!」の力も忘れてはいけないと思う。
これも強烈だから。

これがバシッと響いた時は、ここまで書いてきたような一人称の自己効力感なんて、
とてもチンケでバカバカしいものだと思うことすらある。

 

結局、何人称が一番強いのかなんてわからない。
じゃんけんみたいなものなのかもしれない。

 

明言を避けた。

これは、ずるい結論だ。
ずるくて弱い結論だ。

《メモ》東京国際文芸フェスティバル2016

東京国際文芸フェスティバル2016(文芸フェス)に行ってきました。

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3.2〜3.6の間、世界の著名な作家もお呼びして様々な催しが行われます。
僕が参加したのはこちら。

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文学は国境を越え、世界中の読者と出会う
海外文芸誌編集長と語る “世界文学”の創作現場

登壇されたのは、

ジョン・フリーマン:英語系最大の文芸誌『グランタ』の元編集長で、現在文芸誌『フリーマン』編集長。
中村文則:小説家。2002年に『』で第34回新潮新人賞を受賞しデビュー。2004年『遮光』で第26回野間文芸新人賞、2005年『土の中の子供』で第133回芥川龍之介賞、2010年『掏摸(スリ)』で第4回大江健三郎賞を受賞。
平野啓一郎:小説家。1999年『日蝕』により第120回芥川賞を23歳で受賞。2008年三島由紀夫賞選考委員に最年少で就任、2009年『決壊』で芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞、『ドーン』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。

中国の女流作家・盛可以さんは訳あってご登壇キャンセルに。
面白かった学びをいくつかメモ。

◆フリーマンさん
・文学は、人間性を複雑化する
・決して「固まらない」こと。自分のテイストにこだわったら同じものしか作れない
・作家に強制はしない。作家の声を助け、自分の本にしてあげることが仕事
・書くということは主に「失敗」であるから、作家に失敗する時間・ゆとりを与え、いい失敗をさせてあげる
・教師の役目は生徒に「シニカルであることをやめさせる」こと。シニカルになると世界が狭まる
・長編小説の一部を独立させて短編として打ち出すことがある
優れた小説は、カテゴリーを与えようとすると、そのカテゴリーを拒否して、はみだそうとする
・距離感が破綻するとドラマになる

◆中村さん
・プロの作家じゃなくても、書き続けていると思う
考え過ぎると辞めざるを得なくなるから、自分のビジョンを信じて書く
・研ぎ澄まされた小説にとって「絵」は邪魔になる
・登場人物に憑依して、「その場にいて動いている」ように書く
・作家志望の人は、PCで自分の文章を読み返さないように。プリントアウトして寝かせて、客観的にテキストを見直す

◆平野さん
・「書きたい」以上に、「書く必然性がある」ものを書いている
・「書きたい」ではなく、「自分が読みたい」「世に存在していてほしい」ものを書くこともある
・ビッグデータが多くを決めていて、私たちは「自由に選んでいる気になっている」だけ。自由意志はどこまで存在しているのか?
・(例えば『罪と罰』)一人のおかしな青年の中に、その時代の人間性が映し出される
・ニヒリズムでルポ的に社会の闇を書くだけでなく、読者はその先を求めている
・日本の出版社は社内異動が多い。作家は美容院(出版社)ではなく美容師(編集者)で選んでいる面もある
哲学はカテゴリーから入って個人に引き寄せるが、小説は具体的な一個人から始まってどこかで普遍に触れる。赤の他人の物語がどこかで普遍にたどり着くかどうかのカケで書いている
・電子書籍であれもこれもできる(音をつけたり)だったが、どれもうまくいかなかった
実際に経験してしまうと書けなくなるのでは。作家は精神破綻をしない安全な場所から憑依して書くという機能を持っている

編集者・作家、どちらの立場からも話が聞けて面白かった。
特に平野さんは印象的な言葉は多かった。
深く考えているだけじゃなく、その都度しっかり言語化して整理して生きているんだな〜という印象。

「書いたもの」は、「書いた自分」を超えていく。

「日記かブログを書くといいよ」

新天地へ向かう人、迷いが生じている人、停滞期にある人…
何かアドバイスを求められた時はいつもこう言っています。

 

なぜ「書く」ことが大事なのか。

 

「書く」ことで、分かっているようで把握しきれていなかったものが形になる。
それも確かに「書く」ことの効用です。

でも、尊敬する小林秀雄さんは言います。

拙(まず)く書けてはじめて考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。
書かなければ何も解らぬから書くのである。

「知っていることをはっきりさせる」だけじゃない。
「書くことでようやく知れる」のだと。

 

 

村上春樹はこう書いています。

僕は決して発展しながら小説を書いてきたのではなく、
あくまで小説を書くことによって、かろうじて発展してきた

-『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011
著:村上春樹

 

「書く」という行為はきっと、単に「今の自分を確かめる」手段を超えています。

書かなければ知ることのできなかった「自分以上のもの」に気づくことがある。
今の自分が追いつかないほどのものが出てくることもある。

そこに、自分という実態が追いつこうと努力する。

そういう成長の仕方が、確かにあると思います。
「書いたこと」の方が、「書いた自分」よりも、先を行っている。

 

成長と言えば、「吸収しなきゃ!」と焦りがち。
でも、「吐き出す」ことの方が大事な時もあります。

呼吸法の一つに、

・息を全部吐き切る(15秒)
・腹部の力を抜いて、空気が入ってくるがままに任せる(5秒)

というものがあります。

吸うことよりも、吐くことを重視する。
全てを吐ききって空っぽになった肺は、
すっと力を抜くだけで自然に空気を吸いこんでくれる。

慌てて何でも得ようとするのを、少しやめてみる。
それよりも、今あるもの出し切ってみる。

出し切った後にふっと力を抜いてみる。

その時に、必要なもの、もしかしたらそれ以上のものが、
「吸おう」と強く意識していた時よりもずっと自然に入ってくるのかもしれません。

 

もうちょっとストイックに「書く」ことを考えている人には、
先日読んだ『存在の耐えられない軽さ』という小説の著者であるミラン・クンデラのこの言葉を。

偉大な小説はつねにその作者よりもすこしばかり聡明である
(中略)みずからの作品よりも聡明な小説家は、職業を変えるべきだろう

-『小説の精神
著:ミラン・クンデラ

「自分の方が賢い」と思っているうちは、まだまだ手抜き。
プロフェッショナルは、自分自身を超えているものを表していける人だと思います。

 

 

「書く」ことは、
自分の輪郭も、思考の範囲も、想像力の果ても、
もっともっと広げてくれると信じています。

なので、ブログの更新頑張りますね(笑)