講演をさせていただくときに、ある時から引用するようになった物語がある。
「雪のひとひらの重さはどれくらいかな」
シジュウカラが野バトに聞いた。
「重さなんてないよ」
ハトが答えた。
「じゃあ、おもしろい話をしてあげる」
シジュウカラが言った。
「モミの木の、幹に近い枝にとまっていると、雪が降りはじめた。
激しくはなく、吹雪のなかにいるような感じでもない。
そんなのじゃなくて、傷つくことも荒々しさもない、
夢のなかにいるような感じの降り方だった。
ほかにすることもなくて、 ぼくは小枝や葉に舞い降りる雪をひとひらずつ数えた。 やがて、
降り積もった雪の数は正確に三七四万一九五二になった。
そして三七四万一九五三番目の雪が枝の上に落ちたとき、
きみは重さなんてないと言うけど ──枝が折れた」
そう言うと、シジュウカラはどこへともなく飛んでいった。
ノアの時代以来その問題に関してとても詳しいハトは、
今の話についてしばらく考えていたが、やがて独りつぶやいた。
「もしかしたら、あともう一人だけ誰かが声をあげれば、
世界に平和が訪れるかもしれない」
『シンクロニシティ』という本の最後の場面で、ある女性が語る物語。
どこかの国の民話に原作があるのかどうかは分からない。
「たった“1”の力になんて意味はない」
そう思ってしまうような時には、よく思い出すようにしている。
自分に備わる「たった“1”の力」を疎かにするとき、
自分の前に積もってきた誰かのひとひらずつや、
自分の後に積もっていく誰かのひとひらずつの、
その重さへの敬意までをも失っているのだと。
自分自身の“1”が、最後に枝を折る「決定打」にならなくてもいい。
最後の“1”が劇的な変化を起こしたとしても、
それはその時までのたくさんの“1”の集積があったおかげ。
そう考えれば、決定的じゃない“1”なんてないとも言える。
変化はみんなの積み重ねで起こすもの。
もちろん、誰か一人のとても大きな力であっても変化は起きると思う。
だけど、
1円の寄付であったり、
1票の投票であったり、
1つの思いやりであったり、
向き合っているものの大きさに比べたら重さなんてないかのような小さなものの集積でも、
変えていけるものはきっとある。
周囲の人たちの“1”の力への敬意。
自分自身が持っている“1”の力への敬意。
どちらも大切にしたいと思う。
降ってきた雪を手の平でそっと受けるときのように。
溶けてなくならないようにと願いながら。
Fyn Kynd
(シジュウカラでもハトでもなく、アオカケスですが)