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沈めた錨を上げる。

7月24日は友人の7回目の命日だった。今年も新潟の彼の実家に手を合わせに伺った。

7年前の葬儀の日の新潟は記録的豪雨で、交通機関の乱れで足止めをくらい、危うく間に合わなくなるところだった。道路のあちこちのマンホールから水が噴き出していた。以前の命日も、雨の影響で帰りのローカル線が遅れ、新幹線に置いていかれて帰れなくなったことがあった。

今年。東京が40度超えの猛暑に見舞われるなか、新潟も暑かった。ここ最近は、過去に例を見ないくらいに長らく雨が降らず、作物も育たないらしい。「今年は降らないですね」なんて悠長に話していたら、東京に戻って駅から自宅に向かう途中、土砂降りの雨をお見舞いされた。ずぶ濡れになりながら、お前ふざけんなと思いながら、「やっぱりな」と笑ってしまった。

 

今年は、「後悔」や「悲しみ」ということについて、ぼんやりと考えていた。

 

後悔。

本人が後悔し続けていることは、他人から見たら「それはどうしようもなかった」とか、「気にすることはないよ」と思うことが多い。もちろん、励ましの気持ちも込めて。だけど、だからこそ、両者の間に乖離が生まれ、本人の後悔は人知れず孤独なものになっていくのかもしれない。より苦しい後悔に変わっていってしまうのかもしれない。

そう思うと、誰かの後悔の念を聞いたときに、僕にできることは、ハンカチを渡し、腕を握り、黙って聞くくらいなもの。絞り出せる言葉は「そうだったのですね」が精一杯。無力。でも、その自覚があるから、何回でも何回でも、同じ後悔の言葉を聞き続けようと思う。こちらの文脈で判断せず、結論付けず、ただただ理解しようとし続ける途上にいようと思う。理解できない歯痒さから逃れないでいようと思う。近づけないまでも、距離を離さず、何度でも黙って聞こうと思う。

 

悲しみ。

悲しんでいる人は、広い海の上に、頼りなさ気にぽつんと浮かぶ小舟のように見える。その人が抱える悲しみは、大事な思い出から離れてしまわないように海底に降ろした、重い「錨」のように思える。今年はそんなイメージが浮かんだ。

ある人にとっては、思い出を見失わずにいたいという願望として。ある人にとっては、思い出を乗り越えてしまう罪悪感から生まれる、否応のないものとして。錨はそうやって降ろされるのだと思う。

安心して上陸できる島が見えたとしても、降ろした錨ゆえに、その場所から動けない。身の危険を感じる嵐に見舞われても、降ろした錨ゆえに、その場所から逃れられない。せっかく手にできる安心を、遠望することしかできない。逃れられるかもしれない危険の中に、留まることしかできない。

そんな錨を、誰も喜ばないだろう。そしてきっと、本人もそのことを知っている。知っていながらも、錨を上げられずにいる。

これは他でもなく、かつての自分のこと。「かつて」と言い切ってしまうのは、少し強がりかもしれないけど。

 

どうすれば、錨を上げて、進むことができるのか。一様に効く対処法なんてないと思う。でも少なくとも、「ここに錨を降ろしておかなければ、戻ってこれなくなってしまうかもしれない」という不安に対してだったら、方法があるかもしれない。

一つは、後悔や悲しみを、誰かと共有すること。

錨を降ろしていた場所を、大切な思い出の場所を、誰かと共有して、一緒に覚えておく。その人がもしもその場所を見失っても、共有した誰かが覚えていてくれれば大丈夫。そういう安心を得る。万が一自分が戻れないときも、他の誰かが代わりに戻ってくれる。そういう拠り所を持つ。

僕はかつて、この悲しみを語ることはタブーのような気がしてしまっていた。だけど、3年前にようやく仲間たちと命日をともにできるようになって、悲しい話も、悔しい話も、ずっこけるほど笑える思い出も話せるようになって、だいぶ救われた。一人で持ち上げられるほど、錨は軽いものではないし、自分は力持ちではないのだと知った。

もう一つは、海底に沈めた錨の代わりとなる標を、海上に浮かべること。

お墓、形見、記念日、メモリアル…人はそういうものをなぜ生み出してきたのか。それはもしかしたら、たとえ離れた場所に行っても目で確認できる形ある標を持つことで、遺された人たちが錨を上げ、別の場所に進めるようにするためなのではないか。

墓石に刻む文章、墓碑銘のことを「エピタフ(epitaph)」と言う。語源を調べてみると、接頭語のepi-は、ギリシア語で「上」「表」「外」を意味するらしい。やっぱり、海底に沈めた錨なのではなく、海上に浮かべた標なんだ、と思った。

 

ただやはり、これが救いになる方法だとは、一概には言えないと思う。目に見える標を持ってしまうことで、逆にそれに執着してしまうこともあるかもしれない。後悔や悲しみから離れることが「思い出を見捨てる」という罪悪だと思えてしまう段階にあっては、悲しみを誰かと共有するだけではどうにもならないかもしれない。その場所に留まることの方が幸せに思える人すら、もしかしたらいるのかもしれない。

だからここに書いたことは、決定的な解だとは思わない。問いに対する応えであって、答えではない。暫定的な回答なのであって、解答ではない。

言葉にするということは、自分と一体化して引き離せなくなってしまったものを、胃袋のあたりに凝縮して、形にして、喉を通して、口から吐いて、表に出して、目の前に置いてみて、客体化させること。眺められるものにして、内に秘めていたときとは違った見方をできるようにすること。ここに書いてみようと思ったのも、そのためなのだと思う。

 

「あいつの分まで」とは、僕には口が裂けても言えない。情熱も、探究心も、行動力も、寛容さも、僕は足元にも及ばない。あいつの分は、あいつにしか生きられなかった。代わりは務まらない。だから、「僕の分」を一生懸命生きさせてもらおうと思う。いきいきと、楽しく、ワクワクしながら。

また来年!

「応援する人」、岩田大志さんへ。

「俺から言えることは一つだけ。ここは、お前がいつでも帰ってこられる場所だからね。」

 

長期離脱せざるを得なかった時、かけていただいた言葉。
どれだけ救われたか。

そう言ってくれた本人が、帰らぬ人になってしまった。

上司の岩田大志さんが、先週12日に急逝した。
まだ41歳だった。
本当に突然だった。

 

訃報を聞いてからのこの10日間、何とか耐えなければと、
意図的に気持ちを麻痺させて凌いできたように思う。
まともに感受してしまったら動けなくなると思った。

きちんと日常を回さなければ。
岩田さんのことが大好きだった人たちが、ちゃんと悼めるために自分にできることをしなければ。
せめて葬儀が終わるまでは保たなければ。

それでも、そんなに都合よく麻痺できるわけもなく。
おかしな頭痛が続き、呼吸が浅くなり、身体が痺れ、所構わず涙が流れた。

なんとか耐えてこられたのは、悲しみに襲われているにも関わらず、
岩田さんやご遺族のために踏ん張っている先輩たちの姿がそばにあったからだと思う。

葬儀が終わり、平日が終わり、一人になり、
今また、とても重いものが押し寄せてきている。

痛みはあって当たり前。
痛くないわけがない。

でも大事なことは、自分の痛みと向き合いながらも、
大事な人に気持ちを向けてきちんと悼むこと。
そして、感謝をすること。

 

だから、一つずつ思い出し、書き綴り、彼がどれだけすごい人だったかを残そうと思う。
とてもすべては書ききれないけど。

 

 

 

出会いは大学生の時だった。
南アフリカとSkypeでつながるTABLE FOR TWOのイベントに、参加者の一人として来てくれていた。

英治出版の本は学生の時から本当に好きで、多くの知恵と勇気をもらってきた。
出版社名だけで買ってしまう、唯一の会社だった。

そんな「憧れの」英治出版のスタッフの中で、初めて会ったのが岩田さんだった。
挨拶をした時の第一印象は、

「えっ、無愛想…」

だった。

恐る恐る「英治出版の本で一番オススメはなんですか?」と聞くと、
名刺の裏側に載っている1冊の本を指差した。

サーバントリーダーシップ』だった。

今振り返ると、このチョイスが岩田さんを思いっきり表していたと分かる。

そこから大した会話をすることもなく、イベントを終えた。

数ヶ月後、TABLE FOR TWOの支援地であるウガンダとルワンダに渡航し、
その報告動画を作って公開した。
英治出版のアカウントだったか、岩田さんの個人アカウントだったか、両方だったか。

「ぜひ見て欲しい動画です。」

という言葉とともに、その動画のURLを貼り付けてTwitterでつぶやいてくれていた。

 

これが、僕が岩田さんから受けた最初の「応援」だった。

 

 

 

僕がTABLE FOR TWOの活動を始めるきっかけになった本『「20円」で世界をつなぐ仕事』。
この本は英治出版の本「ではない」。

だけど岩田さんは、この本を含めたフェアをあちこちの書店さんに仕掛け、注文書まで配っていたそう。
実際に、知り合ってしばらくしてから、

「『「20円」で世界をつなぐ仕事』の販促物を作りたいから、協力して欲しい。」

という連絡をもらった。
「自社か他社か」という概念は、本当にこの人にはないのかもしれない。

この本は、僕の人生を大きく変えた本だった。
もしかしたら、僕が書店さんでこの本に出会うことができた裏側には、
やはり岩田さんの力が働いていたのかもしれない。

 

僕が今関わっているWorld Theater Project。
代表が書いた『ゆめの はいたつにん』という本がある。
これも英治出版の本ではない。

実は僕もこの本の中で登場させていただいていて、それを岩田さんに伝えると、

「マジ?1冊ちょうだい。注文書も束で渡して。」

と言って、やはり猛烈に営業してくれた。
この本を中心にしたブックフェアが、今、愛知県でも開催されている。
彼の一声で。

「この本の中で「スピーチの神様」って紹介されてるの、こいつなんですよ」

一緒に回っていると、よくそう言って紹介してくれた。
僕が「しまった、今日現物持ってきて見せればよかった」と思う日も、
なぜか彼のカバンの中には『ゆめの はいたつにん』が入っていた。

「俺は、『ゆめの はいたつにん』のはいたつにんだから」

得意気にそう語っていた。

 

 

 

自他共に堂々認めているから書くが、彼は伝説的なオタクでもあった。

「平日は“お仕事”。休日は“推しごと”」

と、よく言っていた。
実際のところ、平日も“推しごと”をしているところを何度も見たけど。

毎週のようにAKBグループのコンサートや握手会のために全国を飛び回っていた。
なんでそんなに体力がもつのか不思議だった。

「お前が汗水垂らして注文をもらってくるでしょ。英治出版の売り上げが上がるでしょ。そこから俺に給料が払われるでしょ。それが握手券になるんだよ。お前は俺の握手のために働いているんだな。」

こんなにありありと仕事の先にあるビジョンを描き出してみせるリーダーはなかなかいないと思う。
モチベーションを下げていただきありがとうございます。

でも驚いたのが、この話をしたら、

「じゃあ岩田さんの握手のために注文しますね」

という書店員さんがいたこと。
そう言わせてしまうような人だった。

 

しょっちゅう推している子が変わるから、話題についていくのが大変だった。
書店員さんに「岩田最新情報」を求められるから、聞き流すわけにもいかなかった。
おかげでだいぶ詳しくなってしまった。
「また変えたんすか」と言うと、あの名言を教えてくれた。

「推しは変えるものではなく、増やすもの。」

彼はこう続ける。

「出版だって一緒でしょ。新しいタイトルを出したからといって、前の本を絶版にするか?」

妙な説得力があった。
それでもやはり、

「岩田さん、浮気ですか?」

と、メンバーに聞かれることがあったらしい。
彼はこう答えたそう。

「浮気じゃないよ。全部本気。」

 

 

 

岩田さんは、「応援する人」だった。

一度応援モードに入ると、受け手がびっくりするほどのマメさで、
本当に「全部本気」で応援していた。
その多くが、自社や自分の利益とは関係のないことだった。

「告知をしろ」

が彼の口癖だった。
亡くなる前日、休んでいるはずなのにも関わらず最後に送られてきたメールは、

「フェアをやってくれている書店さんのブログ記事、つぶやいておいて」

だった。

 

岩田さんが勧めてくれた『サーバントリーダーシップ』から引く。

 

ここに展開されているのは、一見すると穏やかで地味だけれど、肝心なところでは静かに支えてくれる奉仕型のリーダーの薦めだ。(p.6)

フォロワーの刹那的な欲求に媚びるのではなく、リーダーとして高い志、ミッションやビジョンを持って、それを本気で信じ、その実現に向かうフォロワーを支える(p.10)

サーバント・リーダーは常に自問すべきである。「どうしたら、最良の奉仕ができるだろうか」と。(p.63)

 

彼は、サーバントリーダーだったと思う。

 

 

 

岩田さんが書店員さんをやっていた時代に、
「万引き犯」を捕まえた時の話が社内で流れたことがあった。

 

青葉台時代に捕まえた高校生の話を。

コミックを万引きした高校生を私服警備員が捕まえて事務所に連れてきました。
僕が勤めていた書店では万引き犯はそのまま警察に通報してあとは任せる、というルールがありましたが、その日店長不在で責任者だった僕はそのルールを破りました。

事務所で高校生と話をして「なぜ万引きをしたのか?」という問いに、彼は親との関係に悩んでいるという話を始めました。
受験を控え、本人は勉強をしているのに毎日毎日親から勉強をしろと言われて顔を合わせるのも嫌になってきたこと、
本当は学校の勉強のことを親に相談したかったのに出来なかったということ。
むしゃくしゃしてきて何をしていいかわからず、店に入るまではそんな気もなかったのに鞄の中に本を入れてしまった、と。
本人いわく万引きは初めてで、いわゆる出来心。

僕が話を聞きながら考えていたのは、渋谷時代の組織的転売目的の万引きや神田時代のおじさんおばさんの常習犯のことでした。

警察に渡すことは簡単だけどそれで解決になるのだろうか、なぜ万引きがよくないことなのか、彼自身がしっかり考えて理解しないと同じことを繰り返して、渋谷や神田の時に見た大人たちと同じようになるのではないかと考えました。

彼に対してもう一つ僕が聞いたのは、「万引きをしたことで誰が一番悲しむと思いますか?」という質問。悩みながら答えを考えていた彼は「お店の人です。迷惑をかけてすみませんでした」と謝ってくれましたが僕は「違うよ。一番悲しむのは君をここまで育ててくれたお母さんだよ」と伝え、今回に限り警察には通報しない。ただし両親には連絡をしてお店まで迎えにきてもらうことにしました。
受験生ということもあり、一度の過ちで人生を棒に振って欲しくないという思いもありました。

家に電話をして高校生の息子さんが万引きをして捕まったことを伝え迎えに来てもらったのですが、その時僕がお母さんにお願いしたのは、

・決して頭ごなしに怒らないでほしい
・彼が悩んでいることを伝えてその悩みを聞いてあげてほしい
・その上で、出来ればお父さんも一緒に万引きはなぜしてはいけないことなのか、家族でゆっくり話して欲しい

ということを伝えそれが約束できるのであれば警察には連絡しませんとしてその日はお引き取り願いました。

確か1週間後くらいにその高校生からお店に電話がありました。
帰宅後両親に謝りたくさん話しをしたこと悩みを聞いてもらい、万引きについてもなぜいけないことなのか、考えさせられました。と言われて改めてお詫びと感謝を伝えられました。
「次来るときはお小遣い持ってきて欲しい本を買ってね」と伝えたところ、その高校生はお客さんとして来てくれるようになり、僕が辞めるときに連絡先を交換しました。

昨年、知人の結婚披露宴で柄にもなく友人代表スピーチをしましたが、新郎はその時の高校生です。いまは幸せな生活を送っています。

 

そして岩田さんのメールは、こう締めくくられていた。

 

僕もSKE48の須田亜香里さんと結婚して幸せになりたいと思います。

 

いい話を、全部茶化してしまうのが岩田さんだった。
照れ屋。
(ちなみに、その後「推し」は変わっている。「増えた」のか)

 

 

 

そんな岩田さんが、茶化すことなく真っ直ぐに伝えてくれたのが、冒頭の言葉だった。

 

「俺から言えることは一つだけ。ここは、お前がいつでも帰ってこられる場所だからね。」

 

 

 

帰ってきてくれないかな、と思う。

「暇だからチキン(僕はそう呼ばれていた)いじめて時間つぶそ。」

って言って、輪ゴム飛ばしてきたり、人が書いている記事の文面を改変してきたり、
百歩譲って、もういつものそれでもいいから。

ほんとに、マジでつらいんで、帰ってきてくれませんか。

「今ならアイドルの写真が特典でついてくるからミズノのシューズを買え。その写真くれたら、待遇考える」と言われたから、本当にミズノにして買ったんですけど。
店員さんが写真渡してくれないから、わざわざレジで言ってもらってきたんですけど。
「失礼しました、そんなに熱心な上司がいらっしゃるんですね」と言って、クリアファイルまで付けてもらっていたんですけど。
明日渡しますねって、メール送ってたんですけど。

棺の中に入れてしまおうと葬儀の日に持って行ったけど、
顔見たらそれどころではなくなり、すっかり入れるのを忘れてしまった。

なのに、ポケットの中に入れていたはずのそれが、今どこにも見当たらない。
ハンカチを出すときとかにどこかに落としたのだろうけど、
僕はこっそり岩田さんが持って行ってくれたと信じてますよ。
ちゃんと手元に渡ってますよね?

 

だったらお礼くらい直接言え!

 

と叫びたい気持ち。
だけど、お礼を言わなければいけないのは僕の方。

 

こんなどうしようもない僕を長年気にかけてくれて、ありがとうございました。
知らない世界のことをたくさん教えてくれて、ありがとうございました。
僕が関わる色んな活動を応援してくれて、ありがとうございました。
TABLE FOR TWOも、チャリ旅も、World Theater Projectも、英治出版の仕事も、闘病も、
時にはその隣に、時にはその陰に、いつも岩田さんの姿がありました。

「給料代わり」と言いながら渡してくるCDや写真、あれだけはいらなかったです。
処分に困っています。引き取りにきてくださいよ。

 

岩田さんが通っていたあの書店さんのあの人が、追悼棚を密かに作ってくれていますよ。

昨日『ビジョナリー・ピープル』を電話で大量に注文くださった別の書店さんのあの人は、
「フェアか何かですか?」と聞いたら、

「いえ、特に。ただ、喜んでくれる気がする知人がいまして。ちょっと見せてやりますよ。」

と言っていましたよ。

みんな今、あなたのことを想っていますよ。
耐えられないほど涙を流して、でも思い出話には腹抱えるほど笑わされて。

 

すごい人だった。

 

 

 

そっちでもたくさんコンサートに行って、握手会に行って、カドヤのガリ酎飲んで、かんてきやの焼き鳥食べて、サンエトワールの塩バターパン買い込んで、代々木の10円ブリ大量に注文して、ジョリーズでペヤング作ってもらって、じゃがりこの箱にワイン注いで、大井町の銭湯でちゃぷちゃぷして、楽しんでください。

 

どうせ茶化されると思って、直接言えなかった。

あなたは、僕の命の恩人です。

体調が悪い時に、よく言ってくれた言葉を、そのまま返します。

 

 

おやすみなさい。

 

 

でも、本音を言えば、できれば起きて帰ってきて欲しいです。
あなたが、いつでも帰ってこられる場所があります。

 

 

 

お世話になりました。
忘れません。忘れられません。忘れません。

年齢が追いついたら、あだ名の「ガンちゃん」で呼ばせてください。

岩田さんがびっくりするくらいの、いい立ち飲み屋見つけておきますよ。
また乾杯しましょうね。

 

僕はちゃんと立ち直りますから。
悲しみに暮れているあなたの仲間たちを、守ってあげてください。

 

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ganchan