アプリのカレンダーを下にスクロールしていたら、あっという間に何十年も先の日付にたどり着いてしまった。「もうこの頃には生きていないだろう」という時期が、間違いなく今の延長線上にあって、そしてとんでもなく近くに感じる。
新しい1ヶ月が始まったと思った矢先、気づけばもう終わりを迎えている。月替わりがどんどん早く感じ
「メメント・モリ=死を想え」
死を想うことで、生が豊かになる。そんな思いから、
「人生の最期に聴きたい音は?」
不思議な問いだと思った。深く考えることもなく、
「
占部さんも、この問いの答えに「波の音」を挙げていた。海は生命の象徴。おそらく、他にもこの音を挙げる人は多いのではないかと思う。
以前、すごく疲れたときに、無性に海へ行きたくなったことがあった。雨が降っていたにもかかわらず、鎌倉の由比ヶ浜まで行って、傘をさしながらずっと波の音を聴いていた。あのときの感覚は、占部さんの問いへの答えをイメージしながら感じたことと、かなり近い気がする。その日の感覚を綴った恥ずかしい文章が残っていた。
久しぶりの海。磯の香りとほぼ同時に道路の向こう側に見えた水平線は、記憶していた以上に随分高い位置にあった。天候のせいで波はやや荒れ気味で、白波が段々畑のようになって押し寄せ続けていた。ずっと昔から、誰の記憶にもないような頃から、ただひたすらこうして波を寄せ続けていたのかと思うと、途方もない気持ちになる。
何か意味を見出すでもなく、ただ「見る」。それはなんて難しいことなのだろう。意味を見出そうと頭を絞って考え続け、結局は何も「見えていない」、そんなことばかり。全ての判断を捨てて、ただ見て、感じる。そういう時間は生きていく上で必要だと思う。だけど、今の僕には本当に難しいこと。いつの間にか、難しくなってしまった。
目を閉じて波音を聞いていると、だんだんと耳の外からではなく、体の内側から聞こえて来るような感覚になる。内側から波が身体と外界の境界線にぶつかって、体の輪郭をはっきりと知覚させる。人の中にもきっと、海があるのだろうと思う。
引き波で静かに撫でられた砂浜には、まばらに白い粒が散らばっていて、星が点在する宇宙に見えた。確かにつけたはずの足跡は、少しずつ輪郭を消されていく。自然の力は、物事の境界線をなくす方へと導いているのかもしれない。大きな大きな一つの点へと戻っていく。
星屑から生まれた命が、一つの点に戻っていく。なんとなく、死に対してそんなイメージを持っている。反対に、輪郭がぼやけていって、心身が粒になって離散していくイメージもある。収斂なのか、離散なのか。実際のところは、その瞬間が来てみないとわからない。
浮かんだ3つの音はすべて、ずっと昔から鳴り続け、そしてこれからも変わらず鳴り続けるもの。悠久を感じられるもの。それは、存在してきた期間を終えて消えゆくときに、身を委ねたい拠り所なのかもしれない。
人生の最期に聴きたい音。それを聴きながら抱きたい気持ち。
「人生で何を成し遂げたいか」、いつもいつも、そんな大きなことを考えていなくてもいいと思う。「どういう感覚を抱いていたいか」、それくらいでも。もしかしたら、そちらの方にこそ本質がある可能性だってある。いずれにしても、そう遠くなくやってくる最期を思ってみることで、今の考え方や行動が少しでも建設的な方向に変わればいいのだと思う。「音」をイメージしてみるということは、まさに悲観的にならずにそれができる良い方法かもしれない。
建設的行動…とりあえず僕は、抜かりなく耳かきをしておこうと思った。耳が詰まっては、最期の音色も聴けぬ。おセンチなことを書いてきた割に、そんなことしか思い浮かばない自分が恥ずかしい。恥ずかしいのだけど、
「抜かりなき耳かき」
これ、とてもいい響きじゃないですか?なんとなく。
▼占部さんが執筆する連載『死を想う その人らしい最期とは』
https://eijionline.com/m/md49038390c4f