考えたこと

人生の最期に聴きたい音

アプリのカレンダーを下にスクロールしていたら、あっという間に何十年も先の日付にたどり着いてしまった。「もうこの頃には生きていないだろう」という時期が、間違いなく今の延長線上にあって、そしてとんでもなく近くに感じる。

新しい1ヶ月が始まったと思った矢先、気づけばもう終わりを迎えている。月替わりがどんどん早く感じるようになってきている。これから先、もっとずっと加速していくのだと思う。

 

「メメント・モリ=死を想え」

死を想うことで、生が豊かになる。そんな思いから、様々な立場の方々と死について考える場を提供している、日本メメント・モリ協会の占部まりさん。先日、そんな占部さんのお話を聞く機会に恵まれた。すごく印象的だったのが、占部さんが最後に放った問い。

 

「人生の最期に聴きたい音は?」

 

不思議な問いだと思った。深く考えることもなく、すっといくつかの音が浮かんだ。風に揺れる葉の音。静かな雨音。穏やかな波の音。その音が聴こえてくる風景も見えた。

明日死ぬとしたら?」とか、「死ぬまでにやりたいことは?」とか、死に関する問いはよく耳にする。だけど、この「音」に関する問いを考えたとき、いつもとはまったく違う感覚になった。焦りとか、物悲しさとか、今の自分の甘さへの嫌悪感とか、そういう類のものではない。カレンダーの先を見るのとは違う、とても穏やかな気持ちになった。最期の瞬間、その音に耳を委ねている感覚を想像したとき、少し大げさに言うならば、何かが許されて、解放されていく感じだった。

 

占部さんも、この問いの答えに「波の音」を挙げていた。海は生命の象徴。おそらく、他にもこの音を挙げる人は多いのではないかと思う。

以前、すごく疲れたときに、無性に海へ行きたくなったことがあった。雨が降っていたにもかかわらず、鎌倉の由比ヶ浜まで行って、傘をさしながらずっと波の音を聴いていた。あのときの感覚は、占部さんの問いへの答えをイメージしながら感じたことと、かなり近い気がする。その日の感覚を綴った恥ずかしい文章が残っていた。

 

久しぶりの海。磯の香りとほぼ同時に道路の向こう側に見えた水平線は、記憶していた以上に随分高い位置にあった。天候のせいで波はやや荒れ気味で、白波が段々畑のようになって押し寄せ続けていた。ずっと昔から、誰の記憶にもないような頃から、ただひたすらこうして波を寄せ続けていたのかと思うと、途方もない気持ちになる。

何か意味を見出すでもなく、ただ「見る」。それはなんて難しいことなのだろう。意味を見出そうと頭を絞って考え続け、結局は何も「見えていない」、そんなことばかり。全ての判断を捨てて、ただ見て、感じる。そういう時間は生きていく上で必要だと思う。だけど、今の僕には本当に難しいこと。いつの間にか、難しくなってしまった。

目を閉じて波音を聞いていると、だんだんと耳の外からではなく、体の内側から聞こえて来るような感覚になる。内側から波が身体と外界の境界線にぶつかって、体の輪郭をはっきりと知覚させる。人の中にもきっと、海があるのだろうと思う。

引き波で静かに撫でられた砂浜には、まばらに白い粒が散らばっていて、星が点在する宇宙に見えた。確かにつけたはずの足跡は、少しずつ輪郭を消されていく。自然の力は、物事の境界線をなくす方へと導いているのかもしれない。大きな大きな一つの点へと戻っていく。

 

星屑から生まれた命が、一つの点に戻っていく。なんとなく、死に対してそんなイメージを持っている。反対に、輪郭がぼやけていって、心身が粒になって離散していくイメージもある。収斂なのか、離散なのか。実際のところは、その瞬間が来てみないとわからない。

浮かんだ3つの音はすべて、ずっと昔から鳴り続け、そしてこれからも変わらず鳴り続けるもの。悠久を感じられるもの。それは、存在してきた期間を終えて消えゆくときに、身を委ねたい拠り所なのかもしれない。

 

人生の最期に聴きたい音。それを聴きながら抱きたい気持ち。

「人生で何を成し遂げたいか」、いつもいつも、そんな大きなことを考えていなくてもいいと思う。「どういう感覚を抱いていたいか」、それくらいでも。もしかしたら、そちらの方にこそ本質がある可能性だってある。いずれにしても、そう遠くなくやってくる最期を思ってみることで、今の考え方や行動が少しでも建設的な方向に変わればいいのだと思う。「音」をイメージしてみるということは、まさに悲観的にならずにそれができる良い方法かもしれない。

建設的行動…とりあえず僕は、抜かりなく耳かきをしておこうと思った。耳が詰まっては、最期の音色も聴けぬ。おセンチなことを書いてきた割に、そんなことしか思い浮かばない自分が恥ずかしい。恥ずかしいのだけど、

「抜かりなき耳かき」

これ、とてもいい響きじゃないですか?なんとなく。

 

▼占部さんが執筆する連載『死を想う その人らしい最期とは』
https://eijionline.com/m/md49038390c4f

個人的な井戸の底にある共通の水脈

この1週間、足首を壊して歩きづらかったり、
疲れが溜まっていたせいか、両腕に出現した発疹が消えなかったり、
ちょっと大変だった。
今日ひと段落があったので、明日は小休止を入れようと思っている。
「何をしようか」と考えた時に真っ先に思いついたのが、

「走りたい」

だった。
サッカーをやっていた時も、身体を動かしていないと落ち着かない体質だった。
マラソンを再開してからも、またその傾向が見られる。

スポーツは、一つの中毒だと思う。

 

 

夏は夜。

特に、秋に向かい始めた夏の夜はとても好き。
暦の上では8月7日が立秋だそう。
でも、今くらいの時期にならないと、
なかなか秋に向かっているとは感じられないのが正直なところ。

湿気が引き始める感覚。
そのおかげもあってか、虫の音もより響く。

都会は景色が良くないけれど、虫の音は変わらず綺麗だと思う。
ただそこにだけ耳を傾けて、一晩を過ごしたくらい。

帰り道は、自然とその音が聴ける道を選んでしまう。

感性を失った時が、一番怖い。
この感覚は、大事にし続けたいと思う。

 

 

 

最近の本

ユング心理学入門―“心理療法”コレクション〈1〉 (岩波現代文庫)
ユング心理学入門 〈心理療法〉コレクションⅠ

カンボジアにいる後輩から、「これ、読んでおいてください」と与えられた課題図書。
著者の河合隼雄さんは、日本人でユング心理学を学んだ(おそらく)先駆的な方で、
箱庭療法を日本に導入したことでも有名。

この方の著書は何作か読んでいて、元々かなり興味を持っていた。
特に『影の現象学』は飛び抜けて面白く(最初に読んだ本がこれだったことも大きいと思う)、
人は無意識の中に「自分が生きることを選ばなかった形」をどれだけ押し込めているのかを教えてくれた本で、今でも時々読み返す。

影の現象学 (講談社学術文庫)
影の現象学

この本を読んでから、寝ている時に見る「夢」に対する見方も相当変わった。
(悪く言えば、不必要に夢に意味を感じてしまうようになってしまった。夢は昔から嫌になるくらい見る)

河合さんの自伝『河合隼雄自伝 未来への記憶』も面白い。

河合隼雄自伝: 未来への記憶 (新潮文庫)
河合隼雄自伝 未来への記憶

表紙を見ればひしひしと感じるけれど、
河合さんが「愛すべきおっさん」であることがよくわかる本。
持ち前のユーモアで、気に入られる人にはとことん気に入られ、
相性の合わない人とは徹底的に喧嘩する姿がとても気持ちいい。
とにかく「一人ひとりの人間」への関心が尽きないところも魅力で、
臨床をとことん大事にする姿勢に繋がっているのだなとわかる。
心理学というと、人を理論で見出されたカテゴリーに区切ってしまうイメージがあるけれど(「あなたは何々型」とか)、
河合さんはあくまで「一人ひとり」を見ていると思う。
尊敬する方々を思い浮かべると、みんなこの「一人ひとり」を大事にしている。

 

話が戻って、『ユング心理学入門 〈心理療法〉コレクションⅠ』で特に面白いのが、
「個人的無意識」と「普遍的無意識」の話。
これは他に読んできて好きだった本にとても共通している分野。

河合隼雄さんは村上春樹さんと対談をしている(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という本にもなっている)。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
村上春樹、河合隼雄に会いにいく

「河合さんは、自分の物語を深い場所でわかってくれる唯一の人」
というようなことまで語っている村上さんは、
物語を生み出すときに降りていく心の深い場所を「井戸」に例えることが多い。
あくまで「個人的な」井戸を深く深く降りていくと、
人間にとって「普遍的に」通じる水脈にたどり着くことがあると。

 

個人的な感覚ではあるけれど、芸術家の真価は、
本当に深いところ(水脈)から汲み上げたものを、
自分という通路を通してとても個人的な表現で浮かび上がらせて、
だけどそれに触れた人たちを、もう一度深い水脈まで降ろさせてしまうことではないかと思っている。

村上さんも「自分が書き上げたものの意味がわからない」とインタビューでよく語っていて、
その辺りは「個人的無意識」に通じるのかもしれないし、
読み手もなぜか「なんとなく知っている感覚」を呼び覚まされるのは、
表現されたその「個人的無意識」が「普遍的無意識」に繋がっているものだからではないかと思う。

村上さんはユングの言っていることにとてもシンパシーを感じているそうだけれど、
ユングの本は意識的に読まないようにしているらしい。
知り過ぎてしまうとそこに引っ張られて、
自由な創作活動に支障をきたすかもしれないから、というような理由だったと思う。

両方読んでいると、「いやいや、こっそり読んでるんじゃないか?」
と思うくらい、語っていることが共通していて面白い。

 

このような話は、心理学や芸術の世界だけではなく、
「リーダーシップ」や、(まだかじった程度で不勉強だけれど)「量子物理学」の分野でも、
「あぁ、井戸の底の話と繋がっている」と思えることもある。

そもそもジャンルなんて便宜的に区切ったもので、
無理やり引いた国境線のようなものだと思う。
枠にとらわれずに共通する何かを感じ取った時は、
「学ぶって素晴らしいことだ」と心から感じるし、
もっと学び続けたいと思う。

自社本だけれど、ここまでの話にとてもマッチする本はこれ。

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源泉 知を創造するリーダーシップ

久しぶりにじっくり読み返したい。
そうそう、明日は「走りたい」と同じくらい「本に浸りたい」。

そしてとりあえず、発疹にお引き取り願いたい…

 

 

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(いい感じの「井戸」の写真のフリー素材は、案外ない。)

根本的な自信について

月が変わるたびに、「今年の何分の何が過ぎたのだろう」といちいち計算する癖がある。
7か月が終わった先月頭は、「割り切れずに中途半端だな〜」と感じた記憶がある。
だけど8か月が終わった今は、「3分の2か…」という、もう少しリアルな実感がわいている。

あと3分の1。

節目になったら何かやり出す(「ブログの更新を再開する」はとても典型的…)のは、
裏を返せば「節目にならないと始められない」弱さでもある。

分かってはいるけれど、たとえそうであろうと、
やらないよりはやった方がいいのだろう。たぶん。

ということで、久しぶりにキーボードを叩いてみる。
あまり時間を割くつもりはないので、ばーっと。

 

 

 

「根本的な自信」というものについて。

 

「根本的な自信」という言葉は直感的に出てきたものなので、
あまり語源的な意味は考えていない。
ただ第一印象でしっくりきているというだけ。

「根本的な自信が見当たらなくなった」という感覚が、ここ数年強い。
「見当たらなくなった」などと考えているということは、
「それがあった時期もあった」という風にどこかで思っている証拠だと思う。
そもそも持っていなかったものに対して、「失う」ような感覚がわくことは多分ないだろうから。

 

振り返ると、「それがあった」ように思い当たる時期もある。
ありがたいことだと思う。

でも、ある程度でも自分に自信が持てていた時でも、
能力や技能において誇れていたと思えることは、
不思議なことにあまり思い当たらない。
傲慢になっていた時期はあったけれど、
「絶対的にこれはできる」という確固たる自信を持てていたものは、特にない。

 

そこにあったのは、「学び続ける謙虚さ」「何としてでもやり切りたい執念」だけだったと思う。

能力がなくても、「何かにぶち当たったら学べばいい」「できる人に謙虚に頼めばいい」と。
「執念さえあれば、色々なことが味方してくれる」と。

 

今、「根本的な自信が見当たらなくなった」と感じているのならば、
「学び続ける謙虚さ」と「何としてでもやり切りたい執念」が欠如しているのかもしれない。

そう改めて言葉にすると、ものすごい危機感を覚える。

謙虚さを失ったら、いったい自分に何が残るのだろうか、と。
でも、本当に大切なものを見失いかけている時に違和感を感じられる、
というのは、とても恵まれていることだと思う。

自分への正直さを無くす時が、一番怖い。

 

 

今日の本

写真家・星野道夫さんの没後20年を記念して、
あちらこちらの本屋さんでブックフェアが開催されている。

恥ずかしながらこの方のことは知らなかったのだけど、
棚に平積みされている写真集を何ページが繰ると、
アラスカの圧倒的な光景に呆然としてしまった。

 

星野道夫 (別冊太陽 日本のこころ 242)
星野道夫 (別冊太陽 日本のこころ 242)

確かこの本だったと思う。

深い青の空の下に広がる雪原に、
鯨の巨大な骨(おそらく肋骨)がストーンヘンジように無数に突き刺さっていて、
真ん中に十字架が一つ立っている写真があった。
言葉にできないけど、次のページにいけなくなるような強さがあった。

「呪術的」というには爽やかすぎるけど、
「自然美」というには魔術的すぎるような。

人が見惚れるものには、たいてい両義性が備わっている気がする。
時には矛盾を感じるほどに。
(「呪術的」と「自然美」を対にするのはまだ言葉の納得度が全然足りないけど)

去年日本で引退したバレリーナのシルヴィ・ギエム。
「彼女のパフォーマンスは両性具有的・中性的」という声が多かった、
という話を思い出す。
年越しのラストパフォーマンス、あれは涙が出るほど感動した。

 

カリブー 極北の旅人
カリブー 極北の旅人

彼が愛してやまないアラスカの自然の中でも、
カリブーに対する思い入れはとても強かったそう。
ちなみに、和名が「トナカイ」、英名は「レインディア」、
「カリブー」は北アメリカに生息する個体を指すときに使い、
イヌイット語が語源になっているそう。
どれも素敵な名前だと思う。

「トナカイの絵を描け」と言われたら、
絵心のない自分はおそらく「前に長い角」を描いていたけど、
むしろ後ろ側に伸びて、折れ曲がって上に突き出る角の迫力がすごい。
形にはだいぶ個体差があるけど、枝分かれした部分は人の指みたいで、
角全体が、見えない球体を掴んでいるか、天を仰いでいる両腕に見えた。
とにかくすごい。

 

星野道夫著作集〈1〉アラスカ・光と風 他
星野道夫著作集〈1〉アラスカ・光と風 他

写真だけでなく、この人は文章もとても好き。
誇張したり着飾った表現はなく、「短文。短文。」で続くとても良いリズムの文章。
達観した落ち着きのように感じる時もあれば、
初めて触れたものへの少年のような感動が表れているところもあり、
個人的には抵抗感が全然なく、すんなり入っていってしまえる。
パラパラとしか読めていないけど、全著作読んでみたいなと思えた。
危険だ…

 

 

カリブー

カリブー。
僕はヤックルの姿を重ねて見ているのかもしれない。

雪のひとひらの重さ

講演をさせていただくときに、ある時から引用するようになった物語がある。

 

 

「雪のひとひらの重さはどれくらいかな」

シジュウカラが野バトに聞いた。

 

「重さなんてないよ」

ハトが答えた。

 

「じゃあ、おもしろい話をしてあげる」

シジュウカラが言った。

 

「モミの木の、幹に近い枝にとまっていると、雪が降りはじめた。

激しくはなく、吹雪のなかにいるような感じでもない。

そんなのじゃなくて、傷つくことも荒々しさもない、

夢のなかにいるような感じの降り方だった。

ほかにすることもなくて、ぼくは小枝や葉に舞い降りる雪をひとひらずつ数えた。

やがて、降り積もった雪の数は正確に三七四万一九五二になった。

そして三七四万一九五三番目の雪が枝の上に落ちたとき、

きみは重さなんてないと言うけど

──枝が折れた」

 

そう言うと、シジュウカラはどこへともなく飛んでいった。

ノアの時代以来その問題に関してとても詳しいハトは、

今の話についてしばらく考えていたが、やがて独りつぶやいた。

 

「もしかしたら、あともう一人だけ誰かが声をあげれば、

世界に平和が訪れるかもしれない」

 

 

シンクロニシティ』という本の最後の場面で、ある女性が語る物語。
どこかの国の民話に原作があるのかどうかは分からない。

「たった“1”の力になんて意味はない」

そう思ってしまうような時には、よく思い出すようにしている。

自分に備わる「たった“1”の力」を疎かにするとき、
自分の前に積もってきた誰かのひとひらずつや、
自分の後に積もっていく誰かのひとひらずつの、
その重さへの敬意までをも失っているのだと。

自分自身の“1”が、最後に枝を折る「決定打」にならなくてもいい。
最後の“1”が劇的な変化を起こしたとしても、
それはその時までのたくさんの“1”の集積があったおかげ。
そう考えれば、決定的じゃない“1”なんてないとも言える。

変化はみんなの積み重ねで起こすもの。

もちろん、誰か一人のとても大きな力であっても変化は起きると思う。
だけど、

1円の寄付であったり、
1票の投票であったり、
1つの思いやりであったり、

向き合っているものの大きさに比べたら重さなんてないかのような小さなものの集積でも、
変えていけるものはきっとある。

周囲の人たちの“1”の力への敬意。
自分自身が持っている“1”の力への敬意。

どちらも大切にしたいと思う。

降ってきた雪を手の平でそっと受けるときのように。
溶けてなくならないようにと願いながら。

 

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(シジュウカラでもハトでもなく、アオカケスですが)

記憶の座標と螺旋階段

歳を重ねるごとに「空気」に敏感になっていく自分がいる。

温度感、重さ、肌触り、気怠さ、匂い…

いろんな感覚から、「あの日の空気だ」と、かなりはっきり分かることが多い。
グラデーションのように徐々に緩やかに近づいて来るというよりも、
ある日になるとはっきりと「あっ、今日があの日の空気だ」という感じ。
線を引けるくらい、きちんとした境目があるように思う。

 

そんな日が来ると、どこかをぐるりと一周回って、同じ座標に戻って来た気持ちになる。

その座標には、様々な記憶や思い出が置いてある。
良い思い出の日もあれば、忘れたい記憶の日もある。
その上を、何度何度も、繰り返し通り続ける。

「記憶が蘇る」のではなく、「記憶に戻っていく」。

確固たる自分の今の位置に記憶を引き戻すのではなく、
その座標で待ち続けている記憶に、自分自身が引き込まれていく。

主体は今の自分にではなく、記憶の方にある…

そんな感覚になるときもある。

 

ただ一つ、信じているのは…おそらく「信じたい」のは、
人生は「螺旋階段」だということ。

平面上(X軸とY軸上)の同じ座標の上を何度も通るけれど、
その度ごとに、本当は前回よりも少し高い場所にいる。
周を増すごとに、高く高く。

記憶が置かれた平面座標の上に
時の流れと共に上昇していくZ軸がある。

決して「記憶に戻って来た」のではない。
少し高い場所へ登れているのならば、
たとえ同じ平面座標の上を歩んでいるのだとしても、
主体は記憶ではなく、ちゃんと自分の方にある。
少しずつでも登り続けている、自分という主体がある。

 

螺旋階段2
作:Nick-K (Nikos Koutoulas)

 

そう信じたいからこそ、
登っても登っても同じ場所に戻ってきてしまうトリックアートを見ていると怖くなる時がある。

 

トリックアート 階段

 

トリックに騙されないように。
人生はきっと螺旋階段。

消したくなるような記憶が消えないのと同じくらい、
どんなに些細でもきちんと踏み出してきた歩も消えない。
消せない。

消えないものを積み重ねて、形を整えながら段を作り、
繰り返し同じ座標を回りながらも少しずつ登っていく。

たまらなく「ボレロ」が好きなのは、
それを全身で感じさせてくれる音楽だからだと思う。

 

また6月が終わり、7月がやってきた。
これまでで一番見晴らしの良い7月になるように。

本は意志を持っている。

今、ある本屋さんの、ある店長さんと、ある悪巧みを進めている。
(注:犯罪ではありません。ワクワクする企画です。)

「この本をもっと売りたいんだよね。」

連れて行かれた棚で紹介された本は、仕事で疲れた(特に「ブラック」と言われる会社の)多くのビジネスマンたちを癒してきたそう。

「了解です、勉強しておきます。」

と言ってレジ打ちしてもらい、カバンに詰めた。

 

その夜、久しぶりに会った後輩と夕食を食べながら話をしていると、
何やらその子が思い悩んでいることがまさにその本とぴったり重なっていた。

「あぁ、この本を今日買ったのは、自分が読むためじゃなくて、この子に渡すためだったんだな」

と、だいたい僕はそういう思考に走る。
科学的ではないかもしれないけれど、「シンクロニシティ」は本当にあると思っている。

カバンから取り出して、まだ1ページも開いていないその本を手渡した。

 

「人に本を選ぶ」というのは、本当に緊張する。
人へのプレゼントはよく本にする人間なのだけれど、苦労しなかった試しはない。

お節介になり過ぎていないか。
メッセージが露骨過ぎないか。
興味に合っている本にしようか。
あえて少し分野を外して新しい世界が開けるものにしようか。
良い本なのだけど、もう読んでいるだろうな。
あぁ、この本、中身はドンピシャなのに帯の宣伝文句が…etc

結果、何時間も棚という棚を右往左往する。

 

でも今回は、全く迷いがなかった。
「あ、今だな」と理屈よりも早く感じるときは、素直にそれに従うと大抵正しい。

 

翌日、その子から連絡が来た。

「昨日の本、驚くほどいまの私にぴったりでした」
「ただ、新幹線で読んじゃだめなやつでした笑」
「不思議ですね、ほんとうに。 ゆーやさんもまだ読んでないんですもんね?」

 

本には、二つの意志があると思っている。

一つは、出会うべき人が出会ってくれるまで、辛抱強くじっと待ち続けている忍耐強い意志。
もう一つは、 時々こうやって偶然を起こして自ら届きに行こうとする、行動的な意志。

本に救われたことがある人は、この感覚がなんとなく分かるのではと思う。

本には著者の意志が宿っている。
編集者の意志が宿っている。
営業の意志が宿っている。
印刷会社の意志が、流通業者の意志が…
そして書店員さんの意志が宿っている。

それはもちろんそうなのだけれど、なんというか、本そのものも、意志を持っている。
僕はそんな気がしている。

その意志をもっと感じ取れるようになりたい。

 

届けるべき人に、届けるべき時に、届けるべき本を。

 

そのお手伝いを、もっともっとできるようになりたい。

 

 

店長さんが、その日もう1冊薦めてくれた本がある。

 

聖の青春 (講談社文庫)

 

「将棋の話でね。俺、これ本当に好きなんだよ。」

その一言しか聞いていない。
でも店長さんは面白い人だし、「じゃあそれも読んでみます」。
正直それくらいの気持ちだった。

だけどさっきの話があったから、もしかしてこの本にも何かあるのではないかと勘繰って、今改めて紹介文を見てみた。

 

重い肝臓病を抱え、命懸けで将棋を指す弟子のために、師匠は彼のパンツをも洗った。弟子の名前は村山聖(さとし)。享年29。将棋界の最高峰A級に在籍したままの逝去だった。名人への夢半ばで倒れた“怪童”の一生を、師弟愛、家族愛、ライバルたちとの友情を通して描く感動ノンフィクション。

 

奇しくも来月、僕も聖と同じ年齢を迎える。
そして、7月は僕にとって「命」の月。

あぁ、やっぱり本は意志を持っているんだ、と思った。

 

 

明日は、何週間も前から「予定は入れない。好きなだけ本と原稿に浸る」と決めていた日。
ゆっくりと、本の言葉と意志に向き合おうと思う。

 

あっ、店長、あの本あげちゃいましたけど、僕もちゃんと読みますから。
もう一回レジ打ちしてください。

理想のリーダー

BSの録画でたまたま、ブータンのジグミ・シンゲ・ワンチュク前国王の演説シーンが少し流れた。
そういえば、肉声を聞いたのは初めてだった。

ジグミ・シンゲ・ワンチュク

国をつくるという仕事』でこの方の存在を知ってから、おこがましいことは重々承知だけど、ことあるごとに、

「国王ならこの時どうするだろう?」

と自分に問いかけることが多くなった。

今でも国民に「国王の足跡のない村はない」と語り継がれているほど、
一つひとつの村々を自分の足で歩いて、
一人ひとりの国民の声なき声にまで耳を傾け続けた。
海抜 200メートルのインド国境から、7000メートル級のヒマラヤまで、直線距離がわずか200kmという険しさを考えれば、並大抵の努力じゃないことが分かると思う。

「改革の原点に戻ろうと、国王は旅に出た。一人でも多く民の心を聴こうと、国中を歩き回った。国家安泰の根源を見つめつつ、村から村へと訪れた。そうして百年先の平和な国の姿を展望するとき、行き着くところはいつも同じ、民一人ひとりの幸せだった。」

-『国をつくるという仕事』p.70

「確率は半々、悪王だったらどうする」と、世襲君主制の危うさを見抜いていた国王は、自ら国王弾劾法を発案。
憲法起草委員会の初草案には「国王のために書くな、民のために書け」と落雷。
前代(三世)のジグミ・ドルジ・ワンチュク国王の時代から、権力を自ら放棄して民主制への移行をすすめる。
下記の引用は、その三世について書かれたもの。

ひとりの絶対的支配者が自らの権力に対する重大で明らかな挑戦もないのに、結局は君主制の政治形態そのものの性質を変えてしまうかもしれないような基本的な構造改革を自らの発案で導入したのは、君主制の歴史のなかでは前例のないことであろう」

-『ブータンの政治』p.201

守るべき国家・国民のための、この保身のなさに、いつも感動する。
世界史の教科書に、本気で載せて欲しい。

 

草の根を大事にし、保身なく、心底本気で。

 

このことを書いてくださり、語り続けてくださる『国をつくるという仕事』の著者、元世界銀行副総裁・西水美恵子さんもまた、まさにそのようなリーダー。
心から尊敬している方。

ステマにならないように自社本であることを先にお伝えしておくけど、西水さん著書『国をつくるという仕事』『あなたの中のリーダーへ』は、本当にすべてのリーダーに読んで欲しい本。

そして、今の僕が改めてもう一度読み返すべき本。
今年もそろそろその時期だ。

「自虐」の中に潜む「他虐」と向き合う上で。

自分を徹底的に否定するような言葉を吐きたくなる時がある。
多くの場合、わざわざ誰かに聞こえるように。

「そんなことないよ」
「辛いんだね」
「大丈夫だよ」

言って欲しいのだろうなと思う。
言ってもらえなくても、分かっておいてさえもらえればなと。

時に、手元の日記にぶちまけることもある。
誰も見ないところにまで自己否定を綴るのはなぜなのか。

おそらく、「自分を戒めている自分」に安心したいのだと思う。
「少なくとも自分に厳しくしている」という拠り所を一生懸命こしらえている。

「自己否定」には、そういう魅力がある気がする。
好きになれないくせに、頼ってしまう嫌な魅力。

 

あることが頭をよぎるようになってから、
すんでのところで自己否定の言葉を飲み込むことが増えた。

 

テストで40点だったことを大きな声で嘆いた時、
隣にいる30点だった誰かはどう思うだろうか。

病気で動けない自分を蔑んだ時、
同じ病にある人はどう思うだろうか。

 

現状に満足しないで向上心を持つこと。
自身を否定してしまうこと。

この二つは、似ているようで全く違う。

自分のためにも、同様の状況にある誰かのためにも、
「こんな自分では」と否定する代わりに、
「こんな自分でも」と胸張って生きる姿を見せられたら、
それはとても素敵だと思う。

 

欠如そのものは恥ではない。
恥として蔑むか、逆手にとって誇りにするか。
それは扱い方一つなのではないか。

 

「自虐」の中に潜む「他虐」に睨みをきかせる。

同様の状況にある誰かのことまで想像できるからこそ、
ようやく自分を否定しないでいられる。

強さなのか、弱さなのか。

分からない。
分からないけど、たぶん、そんなことはどっちでもいい。

ただ、この気持ちを大切にしたいとだけ思う。

 

公の場での自虐を避ける代わりに、
思いっ切り吐き出せる場を持つことも大切。

「今日はおおいに嘆いてしまえ!」

否定も肯定もせずに、ただ聞いてくれる人を持つこと。
少なくとも自分は、辛い立場にある人にとってそういう人でありたいと思う。

誰かを傷つけないように、誰かに心配かけないように。
そうして時に、過剰な想像力は吐け口を塞いでしまう。
行き場を失った思いを、抱え込んで、溜め込んで、膨らませて、
そのことで自分を潰してしまうのであれば、それもまた辛いこと。

 

想像力の欠如は確かに怖い。
同時に、過剰な想像力による破滅も怖い。

 

思いやる時と、甘える時と。
上手なバランスを。

ずるくて強い一人称

「確かにあるのだけど、形になっていない」
そんな想いが言葉として代弁されたとき、ハッとする。

私は待っている
驚嘆のこころがふたたび生まれるのを

-ローレンス・ファーリンゲティ

最近一番ハッとしたのはこの言葉だった。
センス・オブ・ワンダーを忘れてはいけないと。

でも「驚嘆のこころが大切なのだよ、君」などと説教がましく言われていたら、
もしかしたらそこまで響かなかったかもしれない。

私は待っている

一人称で語られた言葉は、直接自分に向けて伝えられたことよりも、よっぽど響くことがある。

 

白状すると、「これは自戒ですが」という前置きをつけておきながら、
実は特定の誰かを思い浮かべていることが時々ある。
押し付けがましさをできるだけ薄れさせようとしながら、
「あの人に届け」と思っている時がある。
そして、これがけっこうよく届く。

「ずるい一人称」だと思う。

「ずるい」と言いながら、同時にそれらはとても「強い」とも思う。
人が深く納得するのは、「自分の力で得た」と思えた時が多い。

だから、ウィンストン・チャーチルのこの言葉は至言だと思う。

I’m always ready to learn, although I do not always like being taught.
私はいつでも学ぶことをいとわないが、教えられるのをいつも好むわけではない。

-ウィンストン・チャーチル

ひねくれている(笑)
だけど、とても真実に近いと思う。

誰かが一人称で語っている言葉を聞きながら、
他の誰でもない自分自身が取捨選択し、自分自身が解釈し、その結果腑に落ちる。
その時、「教わる」こと以上の「学び」がそこに生まれる。

一人称で語られた言葉は、一人称で納得しやすい。

そんな気がする。

 

そうは言いながら、尊敬する人たちを思い浮かべると、
人から直接的に指摘されたことも素直に受け止める力を持っている。
鵜呑みにするという意味ではなく、文字通り、受け流さずに「受け止める」。
受け止めたものを保持しながら、本当は心の中で多くの葛藤があるのかもしれない。

だけどいつも、指摘される悔しさよりも、学べる喜びが勝っている。

そうありたいと思う。
でも、なかなかそうあれないことが多い。

「自分で気づくから大丈夫です」

余裕がないときほど、そうやって頑なになる。
そういう自分に気付いては、ポカンと拳骨をくらわせたくなる。

そんないらん頑なさにとらわれているうちは、まだまだちっとも本気になれていないのだと。

 

物語が好きな理由は、もしかしたらそんな「ひねくれた心」にあるのかもしれない。

誤解を恐れずに言えば、「小説家はずるい」と思うことがある。(褒め言葉のつもりで)
中には説教がましい作品もあるけど、優れた作家は「登場人物本人の思想」として、メッセージをうまく溶け込ませる。
読み手は、作家から「伝えられた」のではなく、自分で「すくい取った」と感じる。
もっと優れた小説家は、読み手の内側からそれを「呼び起こす」。

 

かつて小学校サッカーのコーチや家庭教師のアルバイトをやっていた。
その時はいつも、

「コーチのおかげ!」「先生のおかげ!」

と言わせたらダメだと思っていた。

「自分でできた!」

そう言ってもらいたいと。

 

一人称で語ること。
一人称で納得してもらうこと。

ずるくて強い一人称。

でも、ここぞという時の「お前はな!」の力も忘れてはいけないと思う。
これも強烈だから。

これがバシッと響いた時は、ここまで書いてきたような一人称の自己効力感なんて、
とてもチンケでバカバカしいものだと思うことすらある。

 

結局、何人称が一番強いのかなんてわからない。
じゃんけんみたいなものなのかもしれない。

 

明言を避けた。

これは、ずるい結論だ。
ずるくて弱い結論だ。

「書いたもの」は、「書いた自分」を超えていく。

「日記かブログを書くといいよ」

新天地へ向かう人、迷いが生じている人、停滞期にある人…
何かアドバイスを求められた時はいつもこう言っています。

 

なぜ「書く」ことが大事なのか。

 

「書く」ことで、分かっているようで把握しきれていなかったものが形になる。
それも確かに「書く」ことの効用です。

でも、尊敬する小林秀雄さんは言います。

拙(まず)く書けてはじめて考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。
書かなければ何も解らぬから書くのである。

「知っていることをはっきりさせる」だけじゃない。
「書くことでようやく知れる」のだと。

 

 

村上春樹はこう書いています。

僕は決して発展しながら小説を書いてきたのではなく、
あくまで小説を書くことによって、かろうじて発展してきた

-『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011
著:村上春樹

 

「書く」という行為はきっと、単に「今の自分を確かめる」手段を超えています。

書かなければ知ることのできなかった「自分以上のもの」に気づくことがある。
今の自分が追いつかないほどのものが出てくることもある。

そこに、自分という実態が追いつこうと努力する。

そういう成長の仕方が、確かにあると思います。
「書いたこと」の方が、「書いた自分」よりも、先を行っている。

 

成長と言えば、「吸収しなきゃ!」と焦りがち。
でも、「吐き出す」ことの方が大事な時もあります。

呼吸法の一つに、

・息を全部吐き切る(15秒)
・腹部の力を抜いて、空気が入ってくるがままに任せる(5秒)

というものがあります。

吸うことよりも、吐くことを重視する。
全てを吐ききって空っぽになった肺は、
すっと力を抜くだけで自然に空気を吸いこんでくれる。

慌てて何でも得ようとするのを、少しやめてみる。
それよりも、今あるもの出し切ってみる。

出し切った後にふっと力を抜いてみる。

その時に、必要なもの、もしかしたらそれ以上のものが、
「吸おう」と強く意識していた時よりもずっと自然に入ってくるのかもしれません。

 

もうちょっとストイックに「書く」ことを考えている人には、
先日読んだ『存在の耐えられない軽さ』という小説の著者であるミラン・クンデラのこの言葉を。

偉大な小説はつねにその作者よりもすこしばかり聡明である
(中略)みずからの作品よりも聡明な小説家は、職業を変えるべきだろう

-『小説の精神
著:ミラン・クンデラ

「自分の方が賢い」と思っているうちは、まだまだ手抜き。
プロフェッショナルは、自分自身を超えているものを表していける人だと思います。

 

 

「書く」ことは、
自分の輪郭も、思考の範囲も、想像力の果ても、
もっともっと広げてくれると信じています。

なので、ブログの更新頑張りますね(笑)