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この辛い夜を「何とかやり過ごす」の繰り返しでも:『夜を乗り越える』『何もかも憂鬱な夜に』

芸人であり、話題の『火花』の著者、又吉直樹さんの読書に関するエッセイ。

 

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

 

タイトルを見た瞬間、中村文則さんの『何もかも憂鬱な夜に』を思い浮かべた。

 

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

 

眠れなくて、つらい夜。そういう人達が集まり、焚き火を囲み、同じ場所にいればいい。深夜から早朝にかけて、社会が眠っている中で、焚き火の明かりの元に、無数の影が集まればいい。そうやって、時間をやり過ごす。話したい人は話し、聞きたい人は聞き、話したくも聞きたくもない人は、黙ってそこにいればいい。焚き火は、いつまでも燃えるだろう。何もかも、憂鬱な夜でも。

-『何もかも憂鬱な夜に』中村文則

友人にすすめられて読んだ本。
本当に「焚き火」のような物語だった。

同書の解説を書いているのは又吉さんで、随分思い入れの強い本だっだそう。
だから新刊のタイトルが『夜を乗り越える』になったのはとても頷けるし、
最後にはやはり、中村文則さんのこの本が登場する。

 

その夜だけ乗り越えていたら…

近代文学を好んで読む又吉さんは、太宰治や芥川龍之介の著書を多く紹介している。

二人とも、自ら命を絶っている。

又吉さんにとって切っても切り離せない二人だったからこそ、
この本の中でこう語っている。

その夜だけ乗り越えていたら

-『夜を乗り越える』又吉直樹

「今日死のう」と考えた、まさにその夜のこと。
その夜さえ乗り越えていたら。

「その一夜を乗り越える」、いつまで続くかわからない苦悩の中では、
それこそが苦痛であるかもしれない。
その夜「だけ」乗り越えても、やはり次の夜にはダメだったかもしれない。
だけど結局、「今晩だけ乗り越える」の繰り返しを積み重ねていくしか他にない、
という期間もあると思う。

辛い時間を「やり過ごす」というのは、消極的な姿勢に聞こえるかもしれない。
でも耐え難い辛さの真っ只中いる人にとっては、
「やり過ごす」ことだけでも、とても積極的な姿勢だと僕は思う。

芥川龍之介や太宰治が優れた表現者であったから、
又吉さんはこうも語っている。

芥川のような、これだけ才能があって、こんな小説を書いた人なのだから、そういう自分の気持ちを解体して、この「死にたい」は、文学で言ったらどういう言葉なんだろうと、そのことを小説で書いて欲しかったと思います。

-『夜を乗り越える』又吉直樹

その苦しみさえ、作品にしてしまえていたら。

2014年に国際アンデルセン賞を受賞した物語作家の上橋菜穂子さんは、
著書の中でこんなことを語っていた。

つらいことに出会ったときは「いずれ作家としてこの経験が役に立つ」--いつも、そう思っていました。作家の性というのは、妙にしたたかなもので、愛犬が死んだときも、悲しくて悲しくて涙がとまらないのに、その悲しみを後ろから傍観者のように見ている自分がいたりするのです。

-『物語ること、生きること』上橋菜穂子

苦しみや悲しみを、苦しみや悲しみのままに受け止める期間も大切。
だけとどこかの時点で、全てを表現への糧にしてしまう。
個人的にも、それにはとても憧れてしまうことがある。

 

夜を乗り越えるための本

どうしても辛いある一夜を乗り越えるために、本が寄り添ってくれる力はとても強い。
もっと正確に言えば、「こちらから本の中へ没入させてくれる」力かもしれない。

聞きたくない声が頭から離れなくなってしまったとき。
それを遠ざけようとしたり、音量を小さくしようとすることは、逆効果である場合が多い。
小さくしよう小さくしよう、という意識は、余計にその音に注意を向けてしまう。
うまくいかない場合は余計なストレスになる。
仮に小さくできたとしても、微細な音にはより耳が研ぎ澄まされてしまうこともある。

だから、その声を避けようとすることよりも大切なことは、
「耳を奪われるほど素敵な別の何かに没頭する」ことだと思う。
そしてその一つの大きな手段が、「本」だと思っている。

逃避といえばそれまでだけど、耐えられなくなるくらいなら逃げればいい。

素晴らしい物語への没頭は、「いま、ここ」から何もかもを奪ってくれる。
知的好奇心は、人間の三大欲求すら越えることがある。

 

本も読めなくなったら

その読書すらできなくなることもある。
それまでどれだけ読書が好きだったとしても、信じられないくらいに読めなくなる。
心の逃し場所がなくなる。

そんな時に、何がその夜を乗り越えさせてくれるのか。

何もかも相談できる人がそばにいればいいかもしれない。
でも、誰もがそういう環境にあるというわけではない。
誰もがその強さを持っているわけではない。

確かなことは言えないのだけど、
30年にも満たない短い人生の中で、
一つ思い当たることがある。

 

「約束」

 

親との約束。
親友との約束。

約束が破られた時のその人たちの顔を思い浮かべる。
それだけで「耐えられるようになる」ほど生易しいものではない。

だけど「耐えざるをえない」と思うことはできる。

義務感でも綺麗事でも何でもいいから、その夜を何とか越えていく。
朝が来ることがとてつもなく怖くても。
また同じ夜を繰り返さなければいけない不安に押し潰されそうになっても。
壁に頭を叩きつけながらでもいいから、とにかく越えていく。

あるマラソンランナーが言っていた。

辛くなった時、
「あの電柱まで走ったら、もうやめよう」
と考える。

そしてその電柱にたどり着くと、
「あの看板のところ、あそこまで行ったら、今度こそ本当にやめる」
と考え直す。

その繰り返し。
そうやって自分を騙し騙しゴールまで進んでいく。

何もかも憂鬱な夜の乗り越え方は、それに似ているかもしれない。

 

まだ出会っていない素晴らしいこと

そんな風に乗り越え続けていくことが、決して楽なことではないのは分かっている。
根本的な解決にならず、ずっとその繰り返しから抜け出せないのでは、と思うこともある。

だけど、越え続け行った先に、もしかしたら、
諦めていたら出会うことがなかった素晴らしいものが待っているかもしれない。
その素晴らしいものに辿り着くには、やっぱり乗り越え続けなければならない。

俺が言いたいのは、お前は今、ここに確かにいるってことだよ。それなら、お前は、もっと色んなことを知るべきだ。お前は知らなかったんだ。色々なことを。どれだけ素晴らしいものがあるのか、どれだけ奇麗なものが、ここにあるのか。お前は知るべきだ。

-『何もかも憂鬱な夜に』中村文則

出遭ってしまった辛い出来事は誰にでもある。
今はなくても、これから必ず来る。

同時に、これから出会うかもしれない素晴らしいことだって、同じくらいきっとある。
意地悪なことにそれらはたいてい、辿り着くまで姿をはっきりとは見せてくれない。

だからこそ、そこまで自分の足で行ってみばければ。
それまで夜を乗り越え続けなければ。

未来の「まだ出会っていない素晴らしいこと」への希望を捨て去らないこと。
その希望を何とかこぼさないようにしながら、
「今をやり過ごす」ことができる場や方法を持つこと。

上に書いたように、必ずしも本がその役に立たないときもある。
でも、役に立つときもたくさんある。

何かあった時に「あれを読もう」と思える本を持っていることはとても大切だと、
いち本好きとしては思っているし、又吉さんもそう思っているのでは、と思う。

 

まさに今晩が、そういう夜である人たちのことを想像してみる。

その人たちがたまたまこの記事を見るようなことがもしあったら、
明日、又吉さんと中村さんのこの2冊の本を、本屋さんに買いに行ってみてください。

それだけを目標にするのでいいから、何とか今夜を乗り越えて。
本屋さんには、この2冊以外にも、たくさんの「素晴らしいもの」が詰まっているから。

本は意志を持っている。

今、ある本屋さんの、ある店長さんと、ある悪巧みを進めている。
(注:犯罪ではありません。ワクワクする企画です。)

「この本をもっと売りたいんだよね。」

連れて行かれた棚で紹介された本は、仕事で疲れた(特に「ブラック」と言われる会社の)多くのビジネスマンたちを癒してきたそう。

「了解です、勉強しておきます。」

と言ってレジ打ちしてもらい、カバンに詰めた。

 

その夜、久しぶりに会った後輩と夕食を食べながら話をしていると、
何やらその子が思い悩んでいることがまさにその本とぴったり重なっていた。

「あぁ、この本を今日買ったのは、自分が読むためじゃなくて、この子に渡すためだったんだな」

と、だいたい僕はそういう思考に走る。
科学的ではないかもしれないけれど、「シンクロニシティ」は本当にあると思っている。

カバンから取り出して、まだ1ページも開いていないその本を手渡した。

 

「人に本を選ぶ」というのは、本当に緊張する。
人へのプレゼントはよく本にする人間なのだけれど、苦労しなかった試しはない。

お節介になり過ぎていないか。
メッセージが露骨過ぎないか。
興味に合っている本にしようか。
あえて少し分野を外して新しい世界が開けるものにしようか。
良い本なのだけど、もう読んでいるだろうな。
あぁ、この本、中身はドンピシャなのに帯の宣伝文句が…etc

結果、何時間も棚という棚を右往左往する。

 

でも今回は、全く迷いがなかった。
「あ、今だな」と理屈よりも早く感じるときは、素直にそれに従うと大抵正しい。

 

翌日、その子から連絡が来た。

「昨日の本、驚くほどいまの私にぴったりでした」
「ただ、新幹線で読んじゃだめなやつでした笑」
「不思議ですね、ほんとうに。 ゆーやさんもまだ読んでないんですもんね?」

 

本には、二つの意志があると思っている。

一つは、出会うべき人が出会ってくれるまで、辛抱強くじっと待ち続けている忍耐強い意志。
もう一つは、 時々こうやって偶然を起こして自ら届きに行こうとする、行動的な意志。

本に救われたことがある人は、この感覚がなんとなく分かるのではと思う。

本には著者の意志が宿っている。
編集者の意志が宿っている。
営業の意志が宿っている。
印刷会社の意志が、流通業者の意志が…
そして書店員さんの意志が宿っている。

それはもちろんそうなのだけれど、なんというか、本そのものも、意志を持っている。
僕はそんな気がしている。

その意志をもっと感じ取れるようになりたい。

 

届けるべき人に、届けるべき時に、届けるべき本を。

 

そのお手伝いを、もっともっとできるようになりたい。

 

 

店長さんが、その日もう1冊薦めてくれた本がある。

 

聖の青春 (講談社文庫)

 

「将棋の話でね。俺、これ本当に好きなんだよ。」

その一言しか聞いていない。
でも店長さんは面白い人だし、「じゃあそれも読んでみます」。
正直それくらいの気持ちだった。

だけどさっきの話があったから、もしかしてこの本にも何かあるのではないかと勘繰って、今改めて紹介文を見てみた。

 

重い肝臓病を抱え、命懸けで将棋を指す弟子のために、師匠は彼のパンツをも洗った。弟子の名前は村山聖(さとし)。享年29。将棋界の最高峰A級に在籍したままの逝去だった。名人への夢半ばで倒れた“怪童”の一生を、師弟愛、家族愛、ライバルたちとの友情を通して描く感動ノンフィクション。

 

奇しくも来月、僕も聖と同じ年齢を迎える。
そして、7月は僕にとって「命」の月。

あぁ、やっぱり本は意志を持っているんだ、と思った。

 

 

明日は、何週間も前から「予定は入れない。好きなだけ本と原稿に浸る」と決めていた日。
ゆっくりと、本の言葉と意志に向き合おうと思う。

 

あっ、店長、あの本あげちゃいましたけど、僕もちゃんと読みますから。
もう一回レジ打ちしてください。

理想のリーダー

BSの録画でたまたま、ブータンのジグミ・シンゲ・ワンチュク前国王の演説シーンが少し流れた。
そういえば、肉声を聞いたのは初めてだった。

ジグミ・シンゲ・ワンチュク

国をつくるという仕事』でこの方の存在を知ってから、おこがましいことは重々承知だけど、ことあるごとに、

「国王ならこの時どうするだろう?」

と自分に問いかけることが多くなった。

今でも国民に「国王の足跡のない村はない」と語り継がれているほど、
一つひとつの村々を自分の足で歩いて、
一人ひとりの国民の声なき声にまで耳を傾け続けた。
海抜 200メートルのインド国境から、7000メートル級のヒマラヤまで、直線距離がわずか200kmという険しさを考えれば、並大抵の努力じゃないことが分かると思う。

「改革の原点に戻ろうと、国王は旅に出た。一人でも多く民の心を聴こうと、国中を歩き回った。国家安泰の根源を見つめつつ、村から村へと訪れた。そうして百年先の平和な国の姿を展望するとき、行き着くところはいつも同じ、民一人ひとりの幸せだった。」

-『国をつくるという仕事』p.70

「確率は半々、悪王だったらどうする」と、世襲君主制の危うさを見抜いていた国王は、自ら国王弾劾法を発案。
憲法起草委員会の初草案には「国王のために書くな、民のために書け」と落雷。
前代(三世)のジグミ・ドルジ・ワンチュク国王の時代から、権力を自ら放棄して民主制への移行をすすめる。
下記の引用は、その三世について書かれたもの。

ひとりの絶対的支配者が自らの権力に対する重大で明らかな挑戦もないのに、結局は君主制の政治形態そのものの性質を変えてしまうかもしれないような基本的な構造改革を自らの発案で導入したのは、君主制の歴史のなかでは前例のないことであろう」

-『ブータンの政治』p.201

守るべき国家・国民のための、この保身のなさに、いつも感動する。
世界史の教科書に、本気で載せて欲しい。

 

草の根を大事にし、保身なく、心底本気で。

 

このことを書いてくださり、語り続けてくださる『国をつくるという仕事』の著者、元世界銀行副総裁・西水美恵子さんもまた、まさにそのようなリーダー。
心から尊敬している方。

ステマにならないように自社本であることを先にお伝えしておくけど、西水さん著書『国をつくるという仕事』『あなたの中のリーダーへ』は、本当にすべてのリーダーに読んで欲しい本。

そして、今の僕が改めてもう一度読み返すべき本。
今年もそろそろその時期だ。