2018年 6月 の投稿一覧

もとに戻ることがすべてではない。:『傷を愛せるか』

「待っていてくれた」ような本

傷を抱えながら生きるということについて、学術論文ではこぼれおちてしまうようなものを、すくい取ってみよう。

あとがきに書かれている著者の言葉。まさにそれを体現した一冊だった。いろいろな思いがすくい取られたので、少しまとめてみる。

傷を愛せるか
傷を愛せるか』(宮地尚子著 / 大月書店)

医者のように、専門性を備え、弱い立場にある人たちと向き合う仕事では、治療者側が感じる無力感や罪悪感を表に出してはいけない…なんとなく、そんな「強がらせ」のような固定観念や空気感がある気がする。

そんな中で、精神科医であり教授でもある著者の宮地さんは、自身も傷つくということを隠さない。その痛さ、もどかしさ、無力感に蓋をしていない。そんな風に思えた。

だから、言葉がすごく「近い」。医者や研究者らしく客観的であるよりも、主観や実感が伴う洗練された言葉が紡がれていて、とてもやさしい。

なんとなく、「待っていてくれた」と感じる本だった。

 

「傷そのもの」よりも、「傷の周辺」の痛み

アカデミックではなく、短編のエッセイ集という形の本なので、とても読みやすい。どの章にも感銘を受けたけど、その中で特に「ヴァルネラビリティ(脆弱性)」に関する考察はすごく考えさせられた。「男性の性被害と社会政策」というテーマで研究をしていた著者は、こんなことを書いている。

男性の被害者を見ていると、性被害そのものよりも、そのために傷ついた「男らしさ」を必死で取り戻そうとすることのほうが、逆に傷を深めていってしまうという印象を受ける。(中略)ヴァルネラブルであってはいけないという縛りこそ、ヴァルネラビリティになってしまうという逆説が、そこにはある。(p.110)

傷に付随する焦燥感や圧迫感。そこから新たな傷が生まれていく。多くの人が本当に苦しむのは、「傷そのもの」以上に、「傷の周辺」なのではないかと思った。

傷病者に対する励ましの言葉の中に、「そんな傷、大丈夫だよ」「私も同じ病気をしたけど、大丈夫だったよ」という声がある。声をかけられた人の状況や、声をかけてくれた人との関係性によって、「そうか、大丈夫なのか」と安心できることも、もちろんあると思う。

だけど時に、その言葉をかける人が見ているのは「傷そのもの」だけになっているような気がして、とても診断的に聞こえてしまうことがある。傷病者が抱える、その人ごとに違う「傷の周辺」の苦しみを見ようとしているのだろうか。医学的・科学的に診断することのできない「傷の周辺」に寄り添おうとしているのだろうか。時々そんな風に思うことがある。

その人の「傷の周辺」で、何が起きているのか。どんな感情が巻き起こっているのか。その視点を忘れたくない、と強く思った。

 

何重にも覆いかぶせてきた黒い布の外側に、包帯を巻く

上記の引用の中でもう一つ、「必死で取り戻そうとする」という言葉が気になった。何事においても、「戻りたい」「取り戻したい」という衝動と向き合うには、大変なパワーがいると思う。

それを備えていられた頃との落差による、どうしようもない無力感。今の自分ではダメだという焦燥感。「こうありたい」という未来への希望ではなく、「こうあるべき」という過去への義務感、それに付随する疲弊感。「取り戻したいと思うほど過去の自分は優れていたのか」という、ちらつく傲慢さに対する猜疑心と嫌悪感。

そういう負の気持ちが増幅していって、まさに「ヴァルネラブルであってはいけない」という重圧から、よりヴァルネラブルになって自滅していく。

自分が痛んでいること、それ自体に対する罪悪感を抱くこと。罪悪感に囚われている自分を見て、さらに嫌悪感に染められていくこと。そうやって、何重にも自分を苦しめる思考が覆いかぶさっていくこと。

この連鎖ほどつらいことはない、と思う。

「弱さ」や「傷」を、いけないもの、恥ずべきことだと思わないでいい。いけないもの、恥ずべきことと思わずにはいられない自分がいるのなら、そんな自分をも包むようにいたわればいい。ヴァルネラビリティも含めて、すべて抱えたままでいい。

そんな感覚が、この本を読み進めるにつれてじわじわと染み込んできた。

「抱えたまま」でいるのであれば、相変わらず傷は痛むのではないか、とは思う。だけど、連鎖のどこかで「それすらも抱えたままでいていい」と思うことができれば、次々と覆いかぶさってくる自己卑下は、止まるときがくるかもしれない。真っ黒な布を何重にも覆いかぶせてきたその外側に、「もう十分だよ」と、柔らかい包帯が巻かれる。そうして、「ああ、もういいんだ」と思えるときがくるかもしれない。

そういう希望の兆しを与えてくれる本だと思った。

 

もとに戻ることがすべてではない

震災以降、「もとの状態に戻る力」「困難から立ち直る力」というような意味で、「レジリエンス」という言葉に注目が集まった。いくつかの本を読んでみた中で、『レジリエンス 復活力−あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か』(アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー著 / ダイヤモンド社)でなされていた定義が今でも記憶に残っている。

生態学と社会学の分野から表現を借用し、レジリエンスを「システム、企業、個人が極度の状況変化に直面したとき、基本的な目的と健全性を維持する能力」と定義する。(p.10)

「もとに戻る力」以上に、基本的な目的や健全性を「維持する力」であると語られているのは、とても印象に残った。

築きあげてきた家が崩れたのであれば、家をもとの姿のままに立て直し、再現すること(=もとに戻る力)がすべてではない。「安心して暮らせる場所が欲しい」という基本的な目的を思い出せば、「今の」自分にとっての安心に基づいた、新しいタイプの家を建てることに目が向くかもしれない。

落ちてしまった崖を、落ちてきた方向(取り戻したい過去の方向)に登り直すのではなく、未知である反対側の崖を登ってみる意志が生まれるかもしれない。もしくは、崖の下でも暮らしていける方法を見つけ、適応することができるかもしれない。

もとに戻ることがすべてではない。傷をもとに戻すことがすべてではない。少なくとも、「戻さなければ」という重圧に押されて、余計に苦しくなる必要や義務はない。呪縛を解くことに焦らず、まずは呪縛の連鎖をそっと止める。もとの姿に執着するよりも、本当に維持し続けるべき目的と健全性を思い出し、「今」の道を見つける。

もとに戻ることがすべてではない。きっと。

人生の最期に聴きたい音

アプリのカレンダーを下にスクロールしていたら、あっという間に何十年も先の日付にたどり着いてしまった。「もうこの頃には生きていないだろう」という時期が、間違いなく今の延長線上にあって、そしてとんでもなく近くに感じる。

新しい1ヶ月が始まったと思った矢先、気づけばもう終わりを迎えている。月替わりがどんどん早く感じるようになってきている。これから先、もっとずっと加速していくのだと思う。

 

「メメント・モリ=死を想え」

死を想うことで、生が豊かになる。そんな思いから、様々な立場の方々と死について考える場を提供している、日本メメント・モリ協会の占部まりさん。先日、そんな占部さんのお話を聞く機会に恵まれた。すごく印象的だったのが、占部さんが最後に放った問い。

 

「人生の最期に聴きたい音は?」

 

不思議な問いだと思った。深く考えることもなく、すっといくつかの音が浮かんだ。風に揺れる葉の音。静かな雨音。穏やかな波の音。その音が聴こえてくる風景も見えた。

明日死ぬとしたら?」とか、「死ぬまでにやりたいことは?」とか、死に関する問いはよく耳にする。だけど、この「音」に関する問いを考えたとき、いつもとはまったく違う感覚になった。焦りとか、物悲しさとか、今の自分の甘さへの嫌悪感とか、そういう類のものではない。カレンダーの先を見るのとは違う、とても穏やかな気持ちになった。最期の瞬間、その音に耳を委ねている感覚を想像したとき、少し大げさに言うならば、何かが許されて、解放されていく感じだった。

 

占部さんも、この問いの答えに「波の音」を挙げていた。海は生命の象徴。おそらく、他にもこの音を挙げる人は多いのではないかと思う。

以前、すごく疲れたときに、無性に海へ行きたくなったことがあった。雨が降っていたにもかかわらず、鎌倉の由比ヶ浜まで行って、傘をさしながらずっと波の音を聴いていた。あのときの感覚は、占部さんの問いへの答えをイメージしながら感じたことと、かなり近い気がする。その日の感覚を綴った恥ずかしい文章が残っていた。

 

久しぶりの海。磯の香りとほぼ同時に道路の向こう側に見えた水平線は、記憶していた以上に随分高い位置にあった。天候のせいで波はやや荒れ気味で、白波が段々畑のようになって押し寄せ続けていた。ずっと昔から、誰の記憶にもないような頃から、ただひたすらこうして波を寄せ続けていたのかと思うと、途方もない気持ちになる。

何か意味を見出すでもなく、ただ「見る」。それはなんて難しいことなのだろう。意味を見出そうと頭を絞って考え続け、結局は何も「見えていない」、そんなことばかり。全ての判断を捨てて、ただ見て、感じる。そういう時間は生きていく上で必要だと思う。だけど、今の僕には本当に難しいこと。いつの間にか、難しくなってしまった。

目を閉じて波音を聞いていると、だんだんと耳の外からではなく、体の内側から聞こえて来るような感覚になる。内側から波が身体と外界の境界線にぶつかって、体の輪郭をはっきりと知覚させる。人の中にもきっと、海があるのだろうと思う。

引き波で静かに撫でられた砂浜には、まばらに白い粒が散らばっていて、星が点在する宇宙に見えた。確かにつけたはずの足跡は、少しずつ輪郭を消されていく。自然の力は、物事の境界線をなくす方へと導いているのかもしれない。大きな大きな一つの点へと戻っていく。

 

星屑から生まれた命が、一つの点に戻っていく。なんとなく、死に対してそんなイメージを持っている。反対に、輪郭がぼやけていって、心身が粒になって離散していくイメージもある。収斂なのか、離散なのか。実際のところは、その瞬間が来てみないとわからない。

浮かんだ3つの音はすべて、ずっと昔から鳴り続け、そしてこれからも変わらず鳴り続けるもの。悠久を感じられるもの。それは、存在してきた期間を終えて消えゆくときに、身を委ねたい拠り所なのかもしれない。

 

人生の最期に聴きたい音。それを聴きながら抱きたい気持ち。

「人生で何を成し遂げたいか」、いつもいつも、そんな大きなことを考えていなくてもいいと思う。「どういう感覚を抱いていたいか」、それくらいでも。もしかしたら、そちらの方にこそ本質がある可能性だってある。いずれにしても、そう遠くなくやってくる最期を思ってみることで、今の考え方や行動が少しでも建設的な方向に変わればいいのだと思う。「音」をイメージしてみるということは、まさに悲観的にならずにそれができる良い方法かもしれない。

建設的行動…とりあえず僕は、抜かりなく耳かきをしておこうと思った。耳が詰まっては、最期の音色も聴けぬ。おセンチなことを書いてきた割に、そんなことしか思い浮かばない自分が恥ずかしい。恥ずかしいのだけど、

「抜かりなき耳かき」

これ、とてもいい響きじゃないですか?なんとなく。

 

▼占部さんが執筆する連載『死を想う その人らしい最期とは』
https://eijionline.com/m/md49038390c4f