自分を徹底的に否定するような言葉を吐きたくなる時がある。
多くの場合、わざわざ誰かに聞こえるように。
「そんなことないよ」
「辛いんだね」
「大丈夫だよ」
言って欲しいのだろうなと思う。
言ってもらえなくても、分かっておいてさえもらえればなと。
時に、手元の日記にぶちまけることもある。
誰も見ないところにまで自己否定を綴るのはなぜなのか。
おそらく、「自分を戒めている自分」に安心したいのだと思う。
「少なくとも自分に厳しくしている」という拠り所を一生懸命こしらえている。
「自己否定」には、そういう魅力がある気がする。
好きになれないくせに、頼ってしまう嫌な魅力。
あることが頭をよぎるようになってから、
すんでのところで自己否定の言葉を飲み込むことが増えた。
テストで40点だったことを大きな声で嘆いた時、
隣にいる30点だった誰かはどう思うだろうか。
病気で動けない自分を蔑んだ時、
同じ病にある人はどう思うだろうか。
現状に満足しないで向上心を持つこと。
自身を否定してしまうこと。
この二つは、似ているようで全く違う。
自分のためにも、同様の状況にある誰かのためにも、
「こんな自分では」と否定する代わりに、
「こんな自分でも」と胸張って生きる姿を見せられたら、
それはとても素敵だと思う。
欠如そのものは恥ではない。
恥として蔑むか、逆手にとって誇りにするか。
それは扱い方一つなのではないか。
「自虐」の中に潜む「他虐」に睨みをきかせる。
同様の状況にある誰かのことまで想像できるからこそ、
ようやく自分を否定しないでいられる。
強さなのか、弱さなのか。
分からない。
分からないけど、たぶん、そんなことはどっちでもいい。
ただ、この気持ちを大切にしたいとだけ思う。
公の場での自虐を避ける代わりに、
思いっ切り吐き出せる場を持つことも大切。
「今日はおおいに嘆いてしまえ!」
否定も肯定もせずに、ただ聞いてくれる人を持つこと。
少なくとも自分は、辛い立場にある人にとってそういう人でありたいと思う。
誰かを傷つけないように、誰かに心配かけないように。
そうして時に、過剰な想像力は吐け口を塞いでしまう。
行き場を失った思いを、抱え込んで、溜め込んで、膨らませて、
そのことで自分を潰してしまうのであれば、それもまた辛いこと。
想像力の欠如は確かに怖い。
同時に、過剰な想像力による破滅も怖い。
思いやる時と、甘える時と。
上手なバランスを。