2016年 3月 の投稿一覧

「自虐」の中に潜む「他虐」と向き合う上で。

自分を徹底的に否定するような言葉を吐きたくなる時がある。
多くの場合、わざわざ誰かに聞こえるように。

「そんなことないよ」
「辛いんだね」
「大丈夫だよ」

言って欲しいのだろうなと思う。
言ってもらえなくても、分かっておいてさえもらえればなと。

時に、手元の日記にぶちまけることもある。
誰も見ないところにまで自己否定を綴るのはなぜなのか。

おそらく、「自分を戒めている自分」に安心したいのだと思う。
「少なくとも自分に厳しくしている」という拠り所を一生懸命こしらえている。

「自己否定」には、そういう魅力がある気がする。
好きになれないくせに、頼ってしまう嫌な魅力。

 

あることが頭をよぎるようになってから、
すんでのところで自己否定の言葉を飲み込むことが増えた。

 

テストで40点だったことを大きな声で嘆いた時、
隣にいる30点だった誰かはどう思うだろうか。

病気で動けない自分を蔑んだ時、
同じ病にある人はどう思うだろうか。

 

現状に満足しないで向上心を持つこと。
自身を否定してしまうこと。

この二つは、似ているようで全く違う。

自分のためにも、同様の状況にある誰かのためにも、
「こんな自分では」と否定する代わりに、
「こんな自分でも」と胸張って生きる姿を見せられたら、
それはとても素敵だと思う。

 

欠如そのものは恥ではない。
恥として蔑むか、逆手にとって誇りにするか。
それは扱い方一つなのではないか。

 

「自虐」の中に潜む「他虐」に睨みをきかせる。

同様の状況にある誰かのことまで想像できるからこそ、
ようやく自分を否定しないでいられる。

強さなのか、弱さなのか。

分からない。
分からないけど、たぶん、そんなことはどっちでもいい。

ただ、この気持ちを大切にしたいとだけ思う。

 

公の場での自虐を避ける代わりに、
思いっ切り吐き出せる場を持つことも大切。

「今日はおおいに嘆いてしまえ!」

否定も肯定もせずに、ただ聞いてくれる人を持つこと。
少なくとも自分は、辛い立場にある人にとってそういう人でありたいと思う。

誰かを傷つけないように、誰かに心配かけないように。
そうして時に、過剰な想像力は吐け口を塞いでしまう。
行き場を失った思いを、抱え込んで、溜め込んで、膨らませて、
そのことで自分を潰してしまうのであれば、それもまた辛いこと。

 

想像力の欠如は確かに怖い。
同時に、過剰な想像力による破滅も怖い。

 

思いやる時と、甘える時と。
上手なバランスを。

ずるくて強い一人称

「確かにあるのだけど、形になっていない」
そんな想いが言葉として代弁されたとき、ハッとする。

私は待っている
驚嘆のこころがふたたび生まれるのを

-ローレンス・ファーリンゲティ

最近一番ハッとしたのはこの言葉だった。
センス・オブ・ワンダーを忘れてはいけないと。

でも「驚嘆のこころが大切なのだよ、君」などと説教がましく言われていたら、
もしかしたらそこまで響かなかったかもしれない。

私は待っている

一人称で語られた言葉は、直接自分に向けて伝えられたことよりも、よっぽど響くことがある。

 

白状すると、「これは自戒ですが」という前置きをつけておきながら、
実は特定の誰かを思い浮かべていることが時々ある。
押し付けがましさをできるだけ薄れさせようとしながら、
「あの人に届け」と思っている時がある。
そして、これがけっこうよく届く。

「ずるい一人称」だと思う。

「ずるい」と言いながら、同時にそれらはとても「強い」とも思う。
人が深く納得するのは、「自分の力で得た」と思えた時が多い。

だから、ウィンストン・チャーチルのこの言葉は至言だと思う。

I’m always ready to learn, although I do not always like being taught.
私はいつでも学ぶことをいとわないが、教えられるのをいつも好むわけではない。

-ウィンストン・チャーチル

ひねくれている(笑)
だけど、とても真実に近いと思う。

誰かが一人称で語っている言葉を聞きながら、
他の誰でもない自分自身が取捨選択し、自分自身が解釈し、その結果腑に落ちる。
その時、「教わる」こと以上の「学び」がそこに生まれる。

一人称で語られた言葉は、一人称で納得しやすい。

そんな気がする。

 

そうは言いながら、尊敬する人たちを思い浮かべると、
人から直接的に指摘されたことも素直に受け止める力を持っている。
鵜呑みにするという意味ではなく、文字通り、受け流さずに「受け止める」。
受け止めたものを保持しながら、本当は心の中で多くの葛藤があるのかもしれない。

だけどいつも、指摘される悔しさよりも、学べる喜びが勝っている。

そうありたいと思う。
でも、なかなかそうあれないことが多い。

「自分で気づくから大丈夫です」

余裕がないときほど、そうやって頑なになる。
そういう自分に気付いては、ポカンと拳骨をくらわせたくなる。

そんないらん頑なさにとらわれているうちは、まだまだちっとも本気になれていないのだと。

 

物語が好きな理由は、もしかしたらそんな「ひねくれた心」にあるのかもしれない。

誤解を恐れずに言えば、「小説家はずるい」と思うことがある。(褒め言葉のつもりで)
中には説教がましい作品もあるけど、優れた作家は「登場人物本人の思想」として、メッセージをうまく溶け込ませる。
読み手は、作家から「伝えられた」のではなく、自分で「すくい取った」と感じる。
もっと優れた小説家は、読み手の内側からそれを「呼び起こす」。

 

かつて小学校サッカーのコーチや家庭教師のアルバイトをやっていた。
その時はいつも、

「コーチのおかげ!」「先生のおかげ!」

と言わせたらダメだと思っていた。

「自分でできた!」

そう言ってもらいたいと。

 

一人称で語ること。
一人称で納得してもらうこと。

ずるくて強い一人称。

でも、ここぞという時の「お前はな!」の力も忘れてはいけないと思う。
これも強烈だから。

これがバシッと響いた時は、ここまで書いてきたような一人称の自己効力感なんて、
とてもチンケでバカバカしいものだと思うことすらある。

 

結局、何人称が一番強いのかなんてわからない。
じゃんけんみたいなものなのかもしれない。

 

明言を避けた。

これは、ずるい結論だ。
ずるくて弱い結論だ。

ブログ、始めました。

いや、実は数日前からいくつかの記事をすでに書いてはいたのですが…

諸々の調整で、今日がこのブログの公開の日となりました。
なので、一応、改めて。

本当にマイペースにやっていきますが、暇があったら覗いてみてください。
よろしくお願いしますm(__)m

 

 

実は、ブログは過去にもやっていたことがあります。

これからまた書き始めていくにあたって、
これまでやってきた「書く」について少し振り返ってみました。

 

「書く」ということを始めたのは高校1年の時。

サッカー小僧だった僕は、中村俊輔に猛烈に憧れていました。
彼が毎日サッカーノートを書いていると知って、真似をしたのが始まりです。

大学2年の冬にサッカー部を辞めるまで書き続けました。
今でも全部残っています。
(大事な宝物ですが、死んだら僕よりも先に燃やしてください…)

 

部活を辞めてからも、サッカーノートの延長で日々の考え事を日記のように書いていました。

大学3年になると、仲の良かった多くの友人たちが留学へ。
その中でも特に仲が良かったやつが「アンチミクシー、ラブアメブロ」。
「近況を知り合うのために書け」とうるさかったのでしぶしぶブログを始めたのでした。

よくやったな〜と思いますが、なんと律儀に毎日更新していました。

 

これが、初めて自分の書いたものを公に発信した場でした。

その後、TABLE FOR TWOというNPOの活動を始めました。
母校の支部立ち上げ時の同志は、ほとんどがこのブログ繋がりの友人たち。

想いを書いて発信することで、こんなに素敵なことが始まるのだと知りました。
その後も、書いた記事をきっかけにたくさんの素晴らしいことが起きました。

異国の地で初対面の方が「ブログ読んでます」と言ってくれたり…
最も尊敬していた方がたまたま記事を発見してくださってお会いできたり…
ブータンの前王妃さまにお手紙を書かせていただくことになったり…

 

だから僕は、「書いて発信する」ことが持つ力を知っています。
ずっと大切にし続けようと思っていました。

その後もいくつかのブログを転々としながらも、何かしら書き続けていました。

 

ところが、色々あって(←雑)ここ数年はほとんど「書く」ことをやめてしまっていました。

様々な形で10年近く続けてきたことをやめた反動なのか、
記憶力は悪くなるし、言葉は出なくなるし、感性は鈍るし…
よくないことばかりだった気がします。

「どげんかせんといかん!」

と思い、ここ7ヶ月くらい、また日記を書き始めました。
やはりそれを求めていたのか、取り憑かれたように毎晩恐ろしい量を書いていました。

ようやく習慣が戻ってきて、「そろそろまた発信かな…」と。

 

そう思って「ブログ書くかね〜」とぼそっとぼやいたところ、
心優しい友人がこのブログを立ち上げてくれたのでした。

 

 

 

おしまい。

 

 

 

…いやいや、はじまりです。

きっと、それなりには頑張ります。

《メモ》東京国際文芸フェスティバル2016

東京国際文芸フェスティバル2016(文芸フェス)に行ってきました。

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3.2〜3.6の間、世界の著名な作家もお呼びして様々な催しが行われます。
僕が参加したのはこちら。

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文学は国境を越え、世界中の読者と出会う
海外文芸誌編集長と語る “世界文学”の創作現場

登壇されたのは、

ジョン・フリーマン:英語系最大の文芸誌『グランタ』の元編集長で、現在文芸誌『フリーマン』編集長。
中村文則:小説家。2002年に『』で第34回新潮新人賞を受賞しデビュー。2004年『遮光』で第26回野間文芸新人賞、2005年『土の中の子供』で第133回芥川龍之介賞、2010年『掏摸(スリ)』で第4回大江健三郎賞を受賞。
平野啓一郎:小説家。1999年『日蝕』により第120回芥川賞を23歳で受賞。2008年三島由紀夫賞選考委員に最年少で就任、2009年『決壊』で芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞、『ドーン』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。

中国の女流作家・盛可以さんは訳あってご登壇キャンセルに。
面白かった学びをいくつかメモ。

◆フリーマンさん
・文学は、人間性を複雑化する
・決して「固まらない」こと。自分のテイストにこだわったら同じものしか作れない
・作家に強制はしない。作家の声を助け、自分の本にしてあげることが仕事
・書くということは主に「失敗」であるから、作家に失敗する時間・ゆとりを与え、いい失敗をさせてあげる
・教師の役目は生徒に「シニカルであることをやめさせる」こと。シニカルになると世界が狭まる
・長編小説の一部を独立させて短編として打ち出すことがある
優れた小説は、カテゴリーを与えようとすると、そのカテゴリーを拒否して、はみだそうとする
・距離感が破綻するとドラマになる

◆中村さん
・プロの作家じゃなくても、書き続けていると思う
考え過ぎると辞めざるを得なくなるから、自分のビジョンを信じて書く
・研ぎ澄まされた小説にとって「絵」は邪魔になる
・登場人物に憑依して、「その場にいて動いている」ように書く
・作家志望の人は、PCで自分の文章を読み返さないように。プリントアウトして寝かせて、客観的にテキストを見直す

◆平野さん
・「書きたい」以上に、「書く必然性がある」ものを書いている
・「書きたい」ではなく、「自分が読みたい」「世に存在していてほしい」ものを書くこともある
・ビッグデータが多くを決めていて、私たちは「自由に選んでいる気になっている」だけ。自由意志はどこまで存在しているのか?
・(例えば『罪と罰』)一人のおかしな青年の中に、その時代の人間性が映し出される
・ニヒリズムでルポ的に社会の闇を書くだけでなく、読者はその先を求めている
・日本の出版社は社内異動が多い。作家は美容院(出版社)ではなく美容師(編集者)で選んでいる面もある
哲学はカテゴリーから入って個人に引き寄せるが、小説は具体的な一個人から始まってどこかで普遍に触れる。赤の他人の物語がどこかで普遍にたどり着くかどうかのカケで書いている
・電子書籍であれもこれもできる(音をつけたり)だったが、どれもうまくいかなかった
実際に経験してしまうと書けなくなるのでは。作家は精神破綻をしない安全な場所から憑依して書くという機能を持っている

編集者・作家、どちらの立場からも話が聞けて面白かった。
特に平野さんは印象的な言葉は多かった。
深く考えているだけじゃなく、その都度しっかり言語化して整理して生きているんだな〜という印象。