本とのこと

無条件に人にすすめられる冒険記:『星野道夫著作集1(アラスカ 光と風 他)』

本を愛してやまないからこそ、「おすすめの本は?」と聞かれると悩んでしまう。

なんでもそうだけど、goodかどうかよりも、大事なのはfitかどうか。その人の性格、状況、求めるものによって、fitは変わってくると思う。だから、そういう色々を聞いてみないことには、「おすすめ」はなかなか答えるのが難しい。

…と、そんな風に頭でっかちに考えてしまいがちなのだけど、ときどき、その人の性格とか状況とか関係なく、多少強引にでも無条件にすすめたいと思う本に出会う。

星野道夫著作集 1 アラスカ 光と風 他』は、間違いなくそんな一冊だった。

 

星野道夫著作集〈1〉アラスカ・光と風 他

星野道夫著作集1 アラスカ 光と風 他』星野道夫著、新潮社

 

アラスカの大自然に身を捧げた写真家・星野道夫さんの行動力は凄まじい。

10代のときに神田の洋書店で見つけたアラスカの写真集。そこに載っていた1枚の写真に写っていたのは、小さなエスキモーの村「シシュマレフ」。この写真に心奪われ、どうしても訪ねてみたいと思った星野青年は、村長に手紙を送る。半年後に返ってきた「受け入れOK」の手紙に導かれてアラスカへ渡り、結局星野さんはそこに居を構えてしまう。

 

写真家の本でありながら、この全集には一切写真がない。

収録された各作品の元々の書籍には写真が載っていたそうだけど、ここにはあえて収録されていない。だからこそ、文章家としても稀有な才能を発揮できる星野さんのすごさが伝わる。

短文、短文のシンプルなリズムの中で、星野さんは言葉を飾らない。ワクワクする予感に正直で、信じられないような行動力を持っている。危機感を、常に探究心が上回っている。文章は少年のような好奇心に満ちているから、ときどき旅の記録の中にいる星野さんの年齢がわからなくなる。

かと思うと、突然プロのカメラマンの目線に移って、大自然や人間の本質を鋭く見抜いたりする。

 

そんな星野さんによって紡がれる言葉から、想像を絶するアラスカの大自然が浮かびあがってくる。

村人総勢で2時間かけて陸上に引き上げ、体を切り裂けば極寒の地に湯気が立ち上る鯨漁。
爆音を轟かせ、津波のように極北の海をうねらせる巨大氷河の崩壊。
体感温度マイナス100度の山中でカメラを構えて一ヶ月待ち、闇夜の中で恐怖を感じるほどの閃光を放つオーロラとの孤独な対峙。

凄まじい臨場感だった。人の力が一切敵わないようなダイナミックな世界が、今この瞬間も地球のどこかにあると思うと、自分の両目で見えている光景なんて砂つぶのようで、知っている世界はなんて狭いのだろうと思う。

 

ところどころに挟まれるグリズリーとのエピソードは、その後の星野さんの運命を暗示しているかのようで、映画の中で現れる伏線を見ているようだった。

人間と熊が適切な距離さえ保っていれば、無闇にライフルの引き金を弾く必要はない。そんな信念から、星野さんはほとんど銃を携行しなかった。だけど、まさにその熊によって最期を迎えることになる。享年43歳。

星野さんを襲った熊は、人間によって餌付けされ、人間との距離感を失っている個体だったそう。

あまりにも皮肉だと思う。同時に、不謹慎承知で言えば、ドラマティックであるとすら感じてしまった。なんという人生を送ってきた方なんだろう。

 

自分の知らないスケールの世界に圧倒されたい気分の時には、ぜひ多くの人にこの本を読んで欲しいと思った。この本は、読後の教訓など必要なく、ただただアラスカの迫力に没頭できればいいと思う。全集は厳しいという場合は、『アラスカ 光と風』だけでも。秋の夜長にぜひ。

その代わり、冒険心に駆られて、興奮して眠れなくなるのには要注意です。

誰かに手渡したいと心から思える本だった。

見えないリレーの中で込められていく思い:『本を贈る』

何かが受け手に届くまでの間には、多くの人たちの、多くの手間とこだわりがこめられている。たいていの場合、受け手のあずかり知らぬところで。

それはきっと、本に限ったことではない。この本を読むと、本に対しても、本以外のものに対しても、それが手元に届くまでの物語に思いを馳せずにはいられなくなると思う。

 

本を贈る
本を贈る』(笠井瑠美子 / 川人寧幸 / 久禮亮太 / 島田潤一郎 / 橋本亮二 / 藤原隆充 / 三田修平 / 牟田都子 / 矢萩多聞 / 若松英輔著、三輪舎)

 

この本は、編集、装丁、校正、印刷、製本、取次、営業、書店…と、読者に本が届くまでのリレーの各区間を担うプロフェッショナルたちのエッセイ集。出版業界にいる人間として、どの方のお話にも背筋が伸びる思い。

誰もが、著者の思いが届くべき人に届くべき姿で届くように、大事なことが零れ落ちてしまわぬように、丁寧に丁寧に仕事をしている。著者の言葉だけではなく、言葉にならない言葉にまで寄り添おうとしている。

この本を読みながら、自分の手に乗っているまさにこの本に対して、敬意と愛着が増していくのをひしひしと感じられた。印刷技術の発達の要点は大量生産にあると思うのだけど、今自分が手にしているこの本が、たった一冊しかないものすごく稀有なものであるような気さえした。

本書の中で藤原隆充さんが仰る「1000冊の仕事ではなく、1冊×1000回の仕事」という言葉に触れてしまうと、「作品」としての本の姿が色濃くなり、大切に読みたい、置いておきたいという思いがぐっと強まる。

 

独立して活動されている方々が多く、実は起業家精神も学べる本だと感じる。どなたも間違いなくパッションがあるのだけど、暑苦しく息苦しくなるような文体のものはなく、言葉を受ける以上に、自分側から入っていけるようなものばかりだった。

本全体を通じて、肩ひじ張らず、とても心地よい読書感だった。本自体の重量や紙質も、それを手伝ってくれたと思う。ずっと手に持っていたくなるような感覚。

 

 

すてきな本を世に送り出してくださり、どの執筆者にも、製作過程のどの関係者にもお礼を伝えたいくらいの気持ちだけど、個人的には、やはり橋さんへ。

橋さんの、本への、書店さんへの、書店員さんへの思いには、橋さんの発信を見るたびにいつも胸を打たれていました。あの人への2年越しの思いも、書いてくださり感謝です。しっかり胸に刻みました。来月12日に、もう一度読もうと思います。

ご出版、おめでとうございました。

自分を取り繕う余裕すらなくなる挑戦の価値:『ランニング思考』

慎さんには遠く及ばないけど、僕も100kmマラソンを走ったことがある。「なんでわざわざ長い距離を走るの?ただ走るだけで楽しいの?」という質問を散々受けた。かつては自分も陸上をやっている人たちに対して同じことを思っていたので、問いたくなる気持ちはよくわかる。苦しいだけで、何が楽しいのかと。

ましてや、慎さんのように「本州縦断1648kmマラソン」ともなれば、もはや狂気の沙汰にしか思えないかもしれない。だけど実は、この極限体験の中に、体力だけでなく人間性を磨く上で大事なことがたくさん詰まっている(と、少なくともマラソン好きからしたら心底そう思える)。

 

ランニング思考──本州縦断マラソン1648kmを走って学んだこと
ランニング思考──本州縦断マラソン1648kmを走って学んだこと』(晶文社)

 

特にこの本の中で共感したのは、極限常態の中で生まれる二つの心情の変化について。

 

一つは、「自己顕示欲がなくなる」ということ。

信じられないほど苦しい。苦しいのだけど、苦しさのあまり、もはや周りの目がどうでもよくなる。かっこつけている余裕がない。素の自分である以外の余裕がない。慎さんも書いているように、とても「穏やか」な気持ちになる。

年齢を重ねるごとに、未熟さに対する恥じらいの気持ちや、年相応の貫禄への憧れなど、本当はあまり必要ではない、むしろ邪魔になる気持ちが芽生えてくる。どちらも、自分を強く見せようとする隠れ蓑。自分を取り繕う余裕すらなくすほどのぎりぎりの挑戦というのは、そんな自分をもう一度真っ裸にしてくれる。

 

もう一つは、「謙虚になる」ということ。

走っている最中、自分ではコントロールできないことと山ほど出くわす。予想外の怪我、荒れる天候、心折れるのぼり坂…(慎さんの走行記を読めば、こっちまでげっそりするくらいに痛感すると思う)。どんなに練習を積んで自分側を鍛えても、否応のないものと対峙しなければならない瞬間が必ずくる。

たいていはまず、愚痴がこぼれる。「雨ふざけんな」とか「なんでこの辛い時にのぼり坂があんねん」とか。でも最終的には、「やるべきことは一つしかない。変えることのできないこの環境に対して、いま自分にとってできることは何か」という心に落ち着く。

どうにもならない自然への敬意も芽生えるし、ちっぽけな自分を支えてくれるボランティアや応援者の人たちへの感謝の気持ちも強まる。自分を過小評価する自己卑下ではなく、すべてを敬う本当の謙虚さと出会える。そんな気がする。

 

総じて、「あるがままの自分で、そんな自分にできることを一つずつやるしかない」という気持ちになれる。だから、変に強がったり、愚痴ばかり言っていたり、そういう状態になりかけたときは、このスポーツは心からおすすめ。素直に、謙虚に、あるがままになるために。

本の最後にも書かれているけど、極限体験で学んだことを、日常に落とし込むことは本当に難しい。あっという間に走る前の自分に戻ってしまっているようにも思える。「また走りたい」と思うことがそもそも、「あのとき学んだ気持ちにまた戻りたい」という気持ちの表れで、やはりせっかくの学びを活かしきれていないのだろうなと感じる。そうやって、終わることなくいつまでも走り続けていくのかもしれない。

 

この本を読むと、十中八九、慎さんが超人に見えると思う。毎日熱や怪我を抱えながらフルマラソン以上の距離を走り続ける。しかも、走りながら仕事のSkypeミーティングをしている。ウルトラマラソン経験者から見ても次元が違い、凄すぎて読みながら笑ってしまった。

でもおそらく、超人的に見られることよりも、弱さを抱えながらも挑戦し、そんな自分を超えたり許したりしながら人として成長していく、そういう面に焦点を当てた方がよいのだと思うし、その克己し続けていく姿こそが、この本の一番の魅力だと思う。

 

9月。7年前のちょうどいまくらいの時期に、自転車の旅で慎さんのルートと同じ日本海側を爆走していた。逆方向ではあるけど、あそこのトンネルの怖さとか、あそこのコンビニのなさとか、あそこの峠道のやばさとか、とても懐かしい気持ちで読んでいた。冒険の高揚感が蘇ってきた。

走ることによる内面的な変化を知ろうと思ってこの本を手に取ったのに、具体的な走り方や工夫のところにもいっぱい傍線を引いてしまっていた。おそらく僕自身、いままた走りたがっているのだと思う。

 

▼以前挑戦した、宮古島100kmマラソンの記録
ウルトラマラソン挑戦記〈5〉:宮古島100kmワイドーマラソン

優しい子に育てるには、まずは自分が優しい人であれ:『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』

ほぼ日の対談を読んでとても気になっていた幡野広志さん。34歳にして、多発性骨髄腫を発病し、余命3年を告げられた写真家。2歳の息子を持つ。

 

ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。
ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』(PHP研究所)

 

死を前にした人の言葉とは思えないくらい、悲壮感はなく、冷静で、でもあたたかい。優しく、でも厳しくもある。一貫して感じたのは、本当に真っ正直な方だということ。外向け用の言葉ではなく、全部本心で書かれていると強く感じたし、そこが一番魅力的だった。

この本は、子育てをしている人にも多く読まれるのだと思う。だけど、「子どもをどうするか」という他動詞の本ではなく、「自分がどうあるべきか」という自動詞(というかbe動詞)の本だと感じた。優しい子に育てるには、まずは自分が優しい人であれ。まずは自分自身がその理想の姿であろうとすることをとても大事にされている。

ある章で、幡野さんのライフワークの一つでもある、生々しい狩猟のシーンが出てくる。描写が半端ではなく、動物を撃ったときの鼓動、高揚感、血の匂い、内臓の熱が、その場にいるかのような感覚で伝わってきて、実はこの本の中で一番「命」というテーマを感じた。この方の、このテーマの本を読んでみたいと思うくらい。

もっと知りたい、経験したい、という世界への好奇心が素敵だった。読んでいて、自分ももっと世界を広げたいという思いに駆られた。

将来幡野さんのお子さんがこの本を手に取ったときも、きっとそんな思いを持つと思います。書いてくださって、ありがとうございました。

ある夏の日の爆買いの記録:13冊の本のこと

財布に一枚のQuoカードが入っていた。どこでもらったものなのかはまったく思い出せない。「ラッキー!」と思いながら見てみると、えっ、3,000円分!?神の恵みか仏の慈悲か。迷いなく本に使おうと思い、炎天下も何のその、意気揚々と本屋さんへ。

お目当ての本は、税込み1,566円。残りのポイントを使って何を買おうかと、棚という棚を巡って物色。「もう一冊くらい」という思いから始まったものの、案の定欲しい本が多過ぎて止まらなくなる。2時間の滞在の末、13冊まとめ買いしてしまった3,000円のQuoカードごときでは収まりきらない出費…。でも、まあ、たまにはいいか。いいよね。

1日でこんなに買うのは、学生のときに漫画『サンクチュアリ』を12巻セットで買った時以来。「赤ん坊の重さは幸せの重さ」だと誰かが言っていたけど、13冊の本の重さも負けじと幸福な気持ちを与えてくれていると思う。

総重量、4kg。米か。

最近もはや活字を食べるような感覚にすらなってきているので、たしかにしばらく暮らせるだけの食糧を買い込んだ気持ちに似ているかもしれない。郵送対応もしてくれる本屋さんだったので、書店員さんも「えっ、お持ち帰りですか?」とちょっと焦っていた。それはもう、手にとってこれだけ読みたい気持ちになってしまったものを、郵送待ちなんて耐えられません…。深さのある縦長の紙袋を用意してくれたが、2段になってしまう。本が傷つかないようにと、段と段の間に厚紙を敷いてくれた。お手間おかけしました。

13冊、4kg、4,684ページ。幸福の極み…

これだけ一気に買うことは滅多にない。せっかくなので、どんな気持ちでそれぞれの本を選んだのか、記録しておこうと思う。

 

1. 『アフリカの日々』イサク・ディネセン著、河出文庫

アフリカの日々 (河出文庫 テ 9-1)

そもそもこれを買うことが目的だった。デンマーク生まれの著者(本名:カレン・ブリクセン)が、ケニアに持つコーヒー農園で過ごした日々が綴られていて、高い評価を受けている一冊。感性あふれる描写の数々に大期待。時間の流れが変わりそうな予感がしている。ずっと気になっていて、今月文庫化されたことをきっかけに読んでみようと思った。

 

2. 『半分のぼった黄色い太陽』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著、河出書房新社

半分のぼった黄色い太陽

史上最年少でオレンジ賞を受賞したナイジェリアの作家。1960年代に起きたナイジェリアの内戦・ビアフラ戦争を舞台に描いたラブストーリー。「外部から見たアフリカのイメージ(中略)とはひと味もふた味も違うアフリカ世界」という訳者あとがきの言葉から、気になっていた本。2段組500ページという文量から「そのうち…」と先延ばしにしていたけど、まとめ買いスイッチが入ったのでこのタイミングで。図らずとも、アフリカ本2冊とも版元が河出さんだ。

 

3. 『テヘランでロリータを読む(新装版)』アーザル・ナフィーシー著、白水社

テヘランでロリータを読む(新装版)

きっかけは、西加奈子さんの『i(アイ)』を読んでいる中でこの本が出てきたこと。

読者よ、どうか私たちの姿を想像していただきたい。そうでなければ、私たちは本当には存在しない。歳月と政治の暴虐に抗して、私たち自身さえ時に想像する勇気がなかった私たちの姿を想像してほしい。もっとも私的な、秘密の瞬間に、人生のごくありふれた場面にいる私たちを、音楽を聴き、恋に落ち、木陰の道を歩いている私たちを、あるいは、テヘランで『ロリータ』を読んでいる私たちを。それから、今度はそれらすべてを奪われ、地下に追いやられた私たちを想像してほしい。

この引用に出会って、これは読まなければいけないと思っていた。知識を得ることを制限され、とりわけ女性であるがゆえに自由が制限されていたイランにおいて、秘密の読書会の中で文学に触れる喜びはどれだけのものだろう。それを制限される息苦しさはどれだけのものだろう。

 

4. 『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』J.D.サリンジャー著、新潮モダン・クラシックス

このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年 (新潮モダン・クラシックス)

サリンジャーの作品集。タイトル強烈。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がすごく好きで、なんと愛すべき主人公ホールデンくんが登場するという。しかも、有名な短編集『ナイン・ストーリーズ』の一話『バナナフィッシュにうってつけの日』のシーモア・グラースを語り手とした作品も収録。オールスターのスピンオフ感全開。これは楽しみ。そして今更気がついたことが…これまた好きな作品『フラニーとズーイ』に出てくるグラス一家にシーモアという名前のお兄さんがいるのだけど、あれはバナナフィッシュに出てくるシーモアのことだったのか!繋がっていたとは知らず…恥ずかしい。

 

5. 『星野道夫著作集〈1〉アラスカ・光と風 他』星野道夫著、新潮社

星野道夫著作集〈1〉アラスカ・光と風 他

基本的には、一つの話は一冊で読むのが好き。なのだけど、一人の作家の文章をずっと追っていく全集もチャレンジしてみたいとも思っていた。誰にしようかなと考えていたところ、探検家・星野道夫さんに思い至った。実はこの全集1巻は一度読んだことがあり、他にも写真集を何冊か読んでいる。そして、ものすごく惹かれている。短文、短文、で続くシンプルで心地よいリズムの文章で、達観した落ち着きと、少年のような心の動き方がどっちもあり、何より描かれる世界の壮大さに心打たれる。5巻まで、ぜひ読み通したい。

 

6. 『自由からの逃走 新版』エーリッヒ・フロム著、東京創元社

自由からの逃走 新版

「自由から逃れたい」という衝動。矛盾しているように見えて、ピンとくることでもある。ナチズム、全体主義に傾いていく時代に、この本が書かれた意味。まだ読んでいないからなんとも言えないけど、先日読んだオウム真理教(元)信者たちへのインタビュー集『約束された場所で』との関連で思うところがあり、このタイミングで読んでみようと思った。

 

7. 『カルピスをつくった男 三島海雲』山川徹著、小学館

カルピスをつくった男 三島海雲

この本の刊行記念で、ちょうど昨日著者の山川さんのトークイベントがB&Bで開催されていた(行けなかったのだけど)。もう一人のゲストが星野博美さんで、山川さんがもっとも影響を受けた作家だと知り、一気に山川さんにも興味がわいた。星野さんの『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』は、僕がこれまで読んできたノンフィクションの中で最高峰。こんな文章を書けたらな〜と憧れたりもしている人。イベントの紹介文に「自らの半径2mの取材対象から、時空を超える紀行を紡いだお二人」というかっこよすぎる文言があり、これはカルピスも読もう。カルピス飲みながら読もう。と思った次第。本屋さんで残り1冊だったから危なかった。

 

8. 『コンニャク屋漂流記』星野博美著、文春文庫

コンニャク屋漂流記 (文春文庫)

上述の星野博美さんの作品。読売文学賞、いける本大賞受賞作。漁師だった先祖の屋号がなぜか「コンニャク屋」という事実を受け、そのルーツを辿るノンフィクション。『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』も、習い始めたリュートとキリシタンの歴史がリンクして時空を超えた探求が始まっていく本。星野さんの探求物ならば、面白くないはずがない。しかもコンニャクって…もうそれだけで面白い。

 

9. 『切支丹の里』遠藤周作著、中公文庫

切支丹の里 (中公文庫)

小学校の頃、社会の教科書で「踏み絵」のことを学んだときの印象が強く残っている。信仰しているものを踏ませる残酷さ。死を選んででも踏まない人たちの気持ち。想像して、心臓がどきっとしたのを覚えている。あれからだいぶ時間が経って、星野博美さんの『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』に出会い、あの時代のキリシタンの歴史を知った。そのあと、ちょうど映画化のタイミングでもあったので遠藤周作さんの『沈黙』を読んだ。この本と映画からも、一記事割いて書きたいくらいの衝撃を受けた。最近では、長崎の潜伏キリシタン関連の世界遺産の話題が持ち上がり、あらためてこのテーマに触れてみたいと思っていた。で、この本は遠藤周作さんが隠れキリシタンの里を実際に訪れて取材した紀行文的記録集。気高く殉教した信者よりも、踏み絵を踏まずに棄教した人たちの気持ち(弱さ?)を強く描いてきた著者だからこその視点に触れてみたい。

 

10. 『人みな眠りて』カート・ヴォネガット著、河出文庫

人みな眠りて (河出文庫 ウ 10-2)

なんだか暗い話になってしまったので、明るそうな本を。名作『タイタンの妖女』の面白さで一気に惹かれ、SF的な世界の魅力に誘われてしまった。そんな作家カート・ヴォネガットの晩年の短編集の文庫版。発売はもうちょっと先かと思っていたら、もう並んでいたので迷わず。帯のコピーは「心が疲れた時は、ヴォネガットおじさんにお話を聞くことにしよう−−池澤春菜」。ヴォネガットおじさんはこの本にどんな世界観とユーモアを準備してくれているのか。楽しみ。

 

11. 『はい、チーズ』カート・ヴォネガット著、河出文庫

はい、チーズ (河出文庫)

隣に置いてあったんですよ、『人みな眠りて』の。まあ、手に取っちゃいますよね。ということで、ヴォネガットおじさん再び。さっきのが晩年の作品集で、こっちは初期作品集。「ヴォネガットの円熟期のような初期作品集である−−円城塔」、またしてもコピーがいい。絶妙な矛盾感。「バーで出会った殺人アドバイザー」「ペーパーナイフから現れた宇宙人」…初期の頃からテーマがぶっ飛んでる。こっちから読もう。

 

12. 『村上春樹語辞典: 村上春樹にまつわる言葉をイラストと豆知識でやれやれと読み解く』ナカムラクニオ/道前宏子著、誠文堂新光社

村上春樹語辞典: 村上春樹にまつわる言葉をイラストと豆知識でやれやれと読み解く

何で見たのか、「嫌いな男ランキング」的なもので「村上春樹を好んで読むような男」があがっていた気がする。この作家の中長編を全部2回も3回も読んでいる僕は「ふ、ふ〜ん」と強がりつつ受け流そうと努めている。面白いものは面白い。やめないぞ、負けないぞ。…そんなことはどうでもよく、作品に出てくる人・物・言い回し・メタファーをイラスト付きでパラパラと見て、頭の中にイメージしていた光景とのすり合わせができるのは楽しい。「あ〜この作品読み返したいな」というトリガーにもなるので、これを機にまた発表順に読み直そうか。そしてますます嫌われる男になっていくのか…やれやれ。

 

13. 『ランニング思考──本州縦断マラソン1648kmを走って学んだこと』慎泰俊著、晶文社

ランニング思考──本州縦断マラソン1648kmを走って学んだこと

「なんでわざわざ走るの?」「走って何かいいことあるの?」…うんざりするほど聞かれる質問だし、サッカーばかりやっていたころの自分も同じことを思っていた。「走るだけなのに何が楽しいの?」と。ところが宮古島100kmマラソンを経験して、走ることの魅力をズドーンと知ってしまった。とはいえまだうまく言語化できていない。そんな中で、「本州縦断マラソン1648km(!?)」の慎さんの言葉から学べることは多いはず。読むぞ〜走るぞ〜

 

 

以上、爆買いの記録。

書いてる時間あるならその分読めよ…と思いつつ、書いてみてよかったと思うことも。今読みたいと思っている本が、それぞれどう繋がっているのか、過去に読んだ本とどう関連しているのか、自分の興味・関心がどう進化してきたのか…書いてみて分かることが多かった。

「もう読んだ本」だけじゃなくて、「これから読みたい本」について書いてみるのも悪くない。本の効能は、ページをめくる前から始まっている。

新しい挑戦のために、代表作を捨てる。:『世界のなかで自分の役割を見つけること』

小松美羽さんというアーティストを、この本で初めて知った。

 

世界のなかで自分の役割を見つけること――最高のアートを描くための仕事の流儀
世界のなかで自分の役割を見つけること――最高のアートを描くための仕事の流儀
(小松美羽著 / ダイヤモンド社)

 

まず、冒頭の口絵に載っている小松さんの代表作品が本当にやばい。半端ない。これは半端ないって…
開いた口がふさがらないくせに、言葉をなくす。

ご本人のたたずまいからも、「巫女さんのようだ」と感じていたけど、本文を読んで、やっぱりそうだと実感。見えない世界(小松さんには見えているよう)と現世の間に立って、通路となる作品を描く。そんなイメージ(村上春樹の作品に感じるものと似ている気もする)。

小松さんの生きざまもとても刺激的だった。

新しい挑戦に踏み出すために、「自らも一度死んで、再生する必要がある」との思いから、なんと代表作である『四十九日』の原版を切断(冒頭の口絵で僕が圧倒されていた作品)。後戻りしないこの覚悟、凄まじいと思った。

小松さんの作品の展示があれば、必ず行こうと思う。

もとに戻ることがすべてではない。:『傷を愛せるか』

「待っていてくれた」ような本

傷を抱えながら生きるということについて、学術論文ではこぼれおちてしまうようなものを、すくい取ってみよう。

あとがきに書かれている著者の言葉。まさにそれを体現した一冊だった。いろいろな思いがすくい取られたので、少しまとめてみる。

傷を愛せるか
傷を愛せるか』(宮地尚子著 / 大月書店)

医者のように、専門性を備え、弱い立場にある人たちと向き合う仕事では、治療者側が感じる無力感や罪悪感を表に出してはいけない…なんとなく、そんな「強がらせ」のような固定観念や空気感がある気がする。

そんな中で、精神科医であり教授でもある著者の宮地さんは、自身も傷つくということを隠さない。その痛さ、もどかしさ、無力感に蓋をしていない。そんな風に思えた。

だから、言葉がすごく「近い」。医者や研究者らしく客観的であるよりも、主観や実感が伴う洗練された言葉が紡がれていて、とてもやさしい。

なんとなく、「待っていてくれた」と感じる本だった。

 

「傷そのもの」よりも、「傷の周辺」の痛み

アカデミックではなく、短編のエッセイ集という形の本なので、とても読みやすい。どの章にも感銘を受けたけど、その中で特に「ヴァルネラビリティ(脆弱性)」に関する考察はすごく考えさせられた。「男性の性被害と社会政策」というテーマで研究をしていた著者は、こんなことを書いている。

男性の被害者を見ていると、性被害そのものよりも、そのために傷ついた「男らしさ」を必死で取り戻そうとすることのほうが、逆に傷を深めていってしまうという印象を受ける。(中略)ヴァルネラブルであってはいけないという縛りこそ、ヴァルネラビリティになってしまうという逆説が、そこにはある。(p.110)

傷に付随する焦燥感や圧迫感。そこから新たな傷が生まれていく。多くの人が本当に苦しむのは、「傷そのもの」以上に、「傷の周辺」なのではないかと思った。

傷病者に対する励ましの言葉の中に、「そんな傷、大丈夫だよ」「私も同じ病気をしたけど、大丈夫だったよ」という声がある。声をかけられた人の状況や、声をかけてくれた人との関係性によって、「そうか、大丈夫なのか」と安心できることも、もちろんあると思う。

だけど時に、その言葉をかける人が見ているのは「傷そのもの」だけになっているような気がして、とても診断的に聞こえてしまうことがある。傷病者が抱える、その人ごとに違う「傷の周辺」の苦しみを見ようとしているのだろうか。医学的・科学的に診断することのできない「傷の周辺」に寄り添おうとしているのだろうか。時々そんな風に思うことがある。

その人の「傷の周辺」で、何が起きているのか。どんな感情が巻き起こっているのか。その視点を忘れたくない、と強く思った。

 

何重にも覆いかぶせてきた黒い布の外側に、包帯を巻く

上記の引用の中でもう一つ、「必死で取り戻そうとする」という言葉が気になった。何事においても、「戻りたい」「取り戻したい」という衝動と向き合うには、大変なパワーがいると思う。

それを備えていられた頃との落差による、どうしようもない無力感。今の自分ではダメだという焦燥感。「こうありたい」という未来への希望ではなく、「こうあるべき」という過去への義務感、それに付随する疲弊感。「取り戻したいと思うほど過去の自分は優れていたのか」という、ちらつく傲慢さに対する猜疑心と嫌悪感。

そういう負の気持ちが増幅していって、まさに「ヴァルネラブルであってはいけない」という重圧から、よりヴァルネラブルになって自滅していく。

自分が痛んでいること、それ自体に対する罪悪感を抱くこと。罪悪感に囚われている自分を見て、さらに嫌悪感に染められていくこと。そうやって、何重にも自分を苦しめる思考が覆いかぶさっていくこと。

この連鎖ほどつらいことはない、と思う。

「弱さ」や「傷」を、いけないもの、恥ずべきことだと思わないでいい。いけないもの、恥ずべきことと思わずにはいられない自分がいるのなら、そんな自分をも包むようにいたわればいい。ヴァルネラビリティも含めて、すべて抱えたままでいい。

そんな感覚が、この本を読み進めるにつれてじわじわと染み込んできた。

「抱えたまま」でいるのであれば、相変わらず傷は痛むのではないか、とは思う。だけど、連鎖のどこかで「それすらも抱えたままでいていい」と思うことができれば、次々と覆いかぶさってくる自己卑下は、止まるときがくるかもしれない。真っ黒な布を何重にも覆いかぶせてきたその外側に、「もう十分だよ」と、柔らかい包帯が巻かれる。そうして、「ああ、もういいんだ」と思えるときがくるかもしれない。

そういう希望の兆しを与えてくれる本だと思った。

 

もとに戻ることがすべてではない

震災以降、「もとの状態に戻る力」「困難から立ち直る力」というような意味で、「レジリエンス」という言葉に注目が集まった。いくつかの本を読んでみた中で、『レジリエンス 復活力−あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か』(アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー著 / ダイヤモンド社)でなされていた定義が今でも記憶に残っている。

生態学と社会学の分野から表現を借用し、レジリエンスを「システム、企業、個人が極度の状況変化に直面したとき、基本的な目的と健全性を維持する能力」と定義する。(p.10)

「もとに戻る力」以上に、基本的な目的や健全性を「維持する力」であると語られているのは、とても印象に残った。

築きあげてきた家が崩れたのであれば、家をもとの姿のままに立て直し、再現すること(=もとに戻る力)がすべてではない。「安心して暮らせる場所が欲しい」という基本的な目的を思い出せば、「今の」自分にとっての安心に基づいた、新しいタイプの家を建てることに目が向くかもしれない。

落ちてしまった崖を、落ちてきた方向(取り戻したい過去の方向)に登り直すのではなく、未知である反対側の崖を登ってみる意志が生まれるかもしれない。もしくは、崖の下でも暮らしていける方法を見つけ、適応することができるかもしれない。

もとに戻ることがすべてではない。傷をもとに戻すことがすべてではない。少なくとも、「戻さなければ」という重圧に押されて、余計に苦しくなる必要や義務はない。呪縛を解くことに焦らず、まずは呪縛の連鎖をそっと止める。もとの姿に執着するよりも、本当に維持し続けるべき目的と健全性を思い出し、「今」の道を見つける。

もとに戻ることがすべてではない。きっと。

明けても暮れても本のこと。

あけましておめでとうございます。

非国民扱いされようが、餅は苦手。
それでも、時計の針が天井を通り過ぎる前に一升瓶を空けるくらいには、
無事に正月を過ごしています。

年末は疲れが噴出してグロッキーでしたが、ようやく少しリラックスモード。

 

「元旦に始めたものは決して続かない」
という世界の大原則を知りつつ、やはり区切り目には何か書きたくなってしまうもの。

今年はできるだけ「ですます」調で書いていこうかなと思います。
少し、心を柔らかくしたいので。

 

 

2017年。

初日から読みたい本のことばかり考えています。
大晦日も、KYOKUGEN 2016での中村俊輔の登場を見逃したと悟った時点で、
ガキ使を見る気にもなれず買ってきたばかりの『レ・ミゼラブル』を開き、
ジルベスターコンサートが始まるまでビヤンヴニュ・ミリエル司教に慈悲とは何かを諭されていました。
ブータン国王みたいな人ですね、この方は。

ジルベスターコンサート、今年のカウントダウン曲は「ダッタン人の踊り」でしたね。
おしまいの音が伸びる曲だと、日付が変わる瞬間に合わせやすいから安心して聴けます。
それを思うと去年(一昨年か)の「ボレロ」は本当に凄かった。
今見ても泣ける。

それはそうと、とにかく年が暮れても明けても、本、本、本。
「開けても暮れても」と言えば、この本は去年深夜に爆笑しながら読んでいました。

明けても暮れても本屋のホンネ
明けても暮れても本屋のホンネ

ただ去年は、ここ5〜6年で初めて読了冊数が100冊を割ってしまいました。
単なる目安なので別にいいのですが、やはりもっと読書に没頭したかった、というのが正直なところ。

対して、「気になる」と思ってブクログに本棚登録した本は500冊くらい。
興味の幅自体は広がっているのだけど、集中が分散してしまっている印象。

今年はペースを取り戻しつつ、テーマに集中して洞察を得に行く時と、
拡散系でとにかくその瞬間の関心に手を伸ばしてみることと、
メリハリとバランスをうまく取っていきたいと思います。

好奇心のレベルを一つ上げて、もう少し自分に引きつけた読書をできればいいな。

 

 

 

今年学びたいと思っている分野がいくつかあるので、
ダラダラと語りつつ気になっている本をひたすら列挙。

 

「表現」×「治癒」

特に「物語」が人を癒す力について興味があります。
ただ、「いわゆる物語」ではなくても、音楽、絵、ダンス、
いろんな手段による「表現」に可能性があるのでは…
とも感じているので、大きなくくりで「表現」。

「読む」「観る」「聴く」にせよ、「書く」「描く」「奏でる」にせよ、
顕在化していなかった何かに触れ、表す、という行為には、
人を癒す力があると最近強く感じています。
(逆に破壊的な力になってしまう場合のことも追ってみたい)

大きなきっかけになったのは、
ユング心理学や箱庭療法を日本に導入した心理学者の故・河合隼雄さんの著作と、
村上春樹さんの小説をたくさん読んだことだと思います。
中・長編小説は全部読みました。

中でも、河合さんの『影の現象学』は本当に読み入ってしまった一冊。

影の現象学 (講談社学術文庫)
影の現象学

無意識の領域に抑圧してしまったものとの対峙。
向き合うことには危険も伴うが、そこをどう統合していくか。
それは人の治癒や創造性と強く繋がっているのだと感じました。

Whole(全体)という言葉は、Heal(癒す)やHoly(聖なる)と同じ語源だと言われています。
意識と無意識、心と体、自分と他者…
分断されてしまったものを繋ぎ、全体性を取り戻す。
そのために、物語がもたらす力は大きいものなのではないかと。

河合さんはよく村上作品を引用し、本人と対談も行っています。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)
村上春樹、河合隼雄に会いにいく

ということもあって、やはり村上作品や本人のインタビュー集を読むと、そんなことを感じます。
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』、
これはほんっとうに面白く、創作意欲をくすぐられるので、好きな人は是非読んでみてください。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011 (文春文庫)
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011

村上春樹と治癒といえば、
年末に出会った『増補 思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界』も、
頭の中の漠然としていた考えがカチャカチャ音を立てて形になっていくような良い本でした。

増補 思春期をめぐる冒険:心理療法と村上春樹の世界 (創元こころ文庫)
増補 思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界

村上作品は、去年は『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』の初期作品と、『スプートニクの恋人』を読み返しました。
今は『ねじまき鳥クロニクル』を再読中。
2月には新刊も出ますね。

このテーマで今年読もうと思ってすでにスタンバイしているのが、

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法
身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法

物語(tale)の臨床心理学:“お話"にならないお話がもつ治療的意味 (箱庭療法学モノグラフ)
物語(tale)の臨床心理学 “お話”にならないお話がもつ治療的意味

臨床ナラティヴアプローチ
臨床ナラティヴアプローチ

長い年月を経ても語り継がれる「神話」には様々な物語や人間の深層心理の原型が表れているというので、
そこも掘り下げられればいいなと思っています。

 

近現代史を中心とした歴史

学生時代あれだけ世界史好きだったのに、覚えているのは固有名詞ばかり。
大事な流れや因果関係が思い出せないことが多く、今の視点で学び直したいなと思っています。

「世界史」と言えばマクニールの『世界史』。
家にあり、これまでも何度か挑戦したけど、どうにも肌に合わず。
まず読み返したいなと思うのは『若い読者のための世界史』。

若い読者のための世界史
若い読者のための世界史

息子に語りかける風なので、これは分厚いけどやさしいです。

歴史の全体像も学び直したいけど、やはりある程度テーマを絞った濃いものも読みたいところ。
去年上巻だけ読んでとても面白かったけど下巻まで間に合わなかった『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

本好きとしてはたまらない『紙の世界史 歴史に突き動かされた技術』『印刷という革命 ルネサンスの本と日常生活』。

紙の世界史: PAPER 歴史に突き動かされた技術
紙の世界史 歴史に突き動かされた技術

印刷という革命:ルネサンスの本と日常生活
印刷という革命 ルネサンスの本と日常生活

「いつか本腰入れて…」と思いながらも後回しにしていた『暴力の人類史』。

暴力の人類史 上
暴力の人類史

まだまだ出てきそうですが、「今年こそ」と密かに狙っているのが『ローマ人の物語』シリーズ。

塩野七生『ロ-マ人の物語』の旅 コンプリ-トセット 全43巻
ローマ人の物語

文庫だと全43冊。
一昨年チャレンジして4巻までで止まっていましたが、
去年末念願叶ってお会いできたある人から、
「これは読んでおいたほうがいいよ〜」
と言われたこともあって、もう一回。
4巻まででもかなり面白かったので。

日本史は教科書を頭から読み直し始めてみたけどいまいちピンとこないので、
まずは近現代に絞って、家にある半藤一利さんので幕末から読んでいこうと思います。

幕末史
幕末史

昭和史 1926-1945
昭和史 1926-1945

やはり口語体は親しみやすいです。

あとは、今年もお世話になるであろう朝日出版社さまの2タイトルも。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ
それでも、日本人は「戦争」を選んだ

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗
戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗

名著『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』も今年こそ。
そういえばこの本は高校の時から、
僕に消しゴムのカスを投げてきたりした悪い友人がすすめていました。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
失敗の本質 日本軍の組織論的研究

 

 

量子力学をはじめ、理系本

「理系の本が面白い!」と思ったきっかけになったのは『宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎』。

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)
宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎

そろばんを習っていたのでかつて算数は得意でしたが、
高校数学になってから2点(100点満点)をとるくらい理系への興味は失せていました。
でも、この本に何かが呼び覚まされました。ロマンの力ですね。

数学から生物学まで理系の本は何でも読んでみたいと思いますが、
特に「量子力学」は、ここ数年読んだ本でいろいろなジャンルに飛び火して出てきた分野。
今年中にある程度はおさえておきたいなと思っています。
(去年もそう言っていたのですがほぼ手付かずだったので)

手元にあるのは『量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待』。

量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待
量子力学で生命の謎を解く 量子生物学への招待

リーダーシップに関わる『シンクロニシティ[増補改訂版] 未来をつくるリーダーシップ』や、
対話をテーマにした『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』にも出てくる、
物理学者のデヴィッド・ボームの本も読めたらいいなと思います。

全体性と内蔵秩序
全体性と内蔵秩序

あと、今年絶対に読みたいのは、
先日スーパープレゼンテーションでも登場した故ブノワ・マンデルブロのフラクタル関係の本。

フラクタリスト――マンデルブロ自伝――
フラクタリスト マンデルブロ自伝

カオスとフラクタル (ちくま学芸文庫)
カオスとフラクタル

美の構成学―バウハウスからフラクタルまで (中公新書)
美の構成学 バウハウスからフラクタルまで

ごく単純な公式を永遠繰り返すとことで現れる自己相似の美しい複雑な図形。
「小さな部分の中に全体と同じ形が永遠表れ続ける」という概念は、
面白いことに経営書にも出てきます。

全員経営 ―自律分散イノベーション企業 成功の本質
全員経営 自律分散イノベーション企業 成功の本質

「金太郎飴みたいな組織」と言われたら悪口になりますが、
一人ひとりの構成員の中に全体のビジョンが相似で出てくる組織は強いと思います。

「理系本」と書いてしまいましたが、「〜系」と分けるのは便宜的な話であって、
むしろ分けることで損なわれてしまうこともたくさんあると思います。
ジャンルを問わず、いろんな分野を繋げて考えていけると、発見が広がりますね。

 

 

 

年末に本棚を整理していて、
「文学」への関心も年々増していっていることに気がつきました。
今年はもっと小説も読みたいと思っています。

まずは昨日から読み始めた『レ・ミゼラブル』。

レ・ミゼラブル (1) (新潮文庫)
レ・ミゼラブル

「ながらスマホ運転」事故を追ったノンフィクションで『神経ハイジャック もしも「注意力」が奪われたら』という本が去年出ました。
事故を起こした本人に判決で「『レ・ミゼラブル』を読むように」と言い渡されるシーンがあって、
なんだか読まなきゃいけない本のような気がしていました。
映画もとても評判が良いようで、読み終わったら観ようと思います。

次に、全16巻で、この年末年始に読もうと思っていたけどちょっと無理だと悟り始めた『新・平家物語』。

新・平家物語(一) (吉川英治歴史時代文庫)
新・平家物語

去年亡くなった恩人が珍しく「これは毎年読み直す」と言っていた本。
「諸行無常」「盛者必衰」
なんだかね。必ず読み通しますよ。

「スペイン語やってたのなら原典で読め」と言われそうですが、『ドン・キホーテ』。

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)
ドン・キホーテ

去年読んだミラン・クンデラが、
「セルバンテスとともに一つの偉大なヨーロッパの芸術が形成され…」
と称賛していたので気になりはじめ。
小林秀雄さんの「勇ましいものはいつでも滑稽だ」という言葉が好きで、
読んだこともないのにドン・キホーテにはこのイメージが重なっています。

「ザ・ファンタジー」も読みたいので、
数年前にまとめ買いしたものの、1巻まで読んでそのままになっていた『ゲド戦記』もそろそろ。

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)
ゲド戦記

キーワードの「真(まこと)の名」。
惹かれるものがある、奥深いイメージだなと感じます。

今年生誕150年ということで、夏目漱石も何タイトルか読めるといいな。

 

 

 

こうやって皮算用しても、読みたい本にどんどん出会って乱されていってしまうのだと思います。
それがまた喜びです。

今年も素晴らしい本とたくさん出会えますように。
多くの人たちにとっての、そういう場をたくさん作れますように。

 

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(今年の蔵書整理の様子)

この辛い夜を「何とかやり過ごす」の繰り返しでも:『夜を乗り越える』『何もかも憂鬱な夜に』

芸人であり、話題の『火花』の著者、又吉直樹さんの読書に関するエッセイ。

 

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

 

タイトルを見た瞬間、中村文則さんの『何もかも憂鬱な夜に』を思い浮かべた。

 

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

 

眠れなくて、つらい夜。そういう人達が集まり、焚き火を囲み、同じ場所にいればいい。深夜から早朝にかけて、社会が眠っている中で、焚き火の明かりの元に、無数の影が集まればいい。そうやって、時間をやり過ごす。話したい人は話し、聞きたい人は聞き、話したくも聞きたくもない人は、黙ってそこにいればいい。焚き火は、いつまでも燃えるだろう。何もかも、憂鬱な夜でも。

-『何もかも憂鬱な夜に』中村文則

友人にすすめられて読んだ本。
本当に「焚き火」のような物語だった。

同書の解説を書いているのは又吉さんで、随分思い入れの強い本だっだそう。
だから新刊のタイトルが『夜を乗り越える』になったのはとても頷けるし、
最後にはやはり、中村文則さんのこの本が登場する。

 

その夜だけ乗り越えていたら…

近代文学を好んで読む又吉さんは、太宰治や芥川龍之介の著書を多く紹介している。

二人とも、自ら命を絶っている。

又吉さんにとって切っても切り離せない二人だったからこそ、
この本の中でこう語っている。

その夜だけ乗り越えていたら

-『夜を乗り越える』又吉直樹

「今日死のう」と考えた、まさにその夜のこと。
その夜さえ乗り越えていたら。

「その一夜を乗り越える」、いつまで続くかわからない苦悩の中では、
それこそが苦痛であるかもしれない。
その夜「だけ」乗り越えても、やはり次の夜にはダメだったかもしれない。
だけど結局、「今晩だけ乗り越える」の繰り返しを積み重ねていくしか他にない、
という期間もあると思う。

辛い時間を「やり過ごす」というのは、消極的な姿勢に聞こえるかもしれない。
でも耐え難い辛さの真っ只中いる人にとっては、
「やり過ごす」ことだけでも、とても積極的な姿勢だと僕は思う。

芥川龍之介や太宰治が優れた表現者であったから、
又吉さんはこうも語っている。

芥川のような、これだけ才能があって、こんな小説を書いた人なのだから、そういう自分の気持ちを解体して、この「死にたい」は、文学で言ったらどういう言葉なんだろうと、そのことを小説で書いて欲しかったと思います。

-『夜を乗り越える』又吉直樹

その苦しみさえ、作品にしてしまえていたら。

2014年に国際アンデルセン賞を受賞した物語作家の上橋菜穂子さんは、
著書の中でこんなことを語っていた。

つらいことに出会ったときは「いずれ作家としてこの経験が役に立つ」--いつも、そう思っていました。作家の性というのは、妙にしたたかなもので、愛犬が死んだときも、悲しくて悲しくて涙がとまらないのに、その悲しみを後ろから傍観者のように見ている自分がいたりするのです。

-『物語ること、生きること』上橋菜穂子

苦しみや悲しみを、苦しみや悲しみのままに受け止める期間も大切。
だけとどこかの時点で、全てを表現への糧にしてしまう。
個人的にも、それにはとても憧れてしまうことがある。

 

夜を乗り越えるための本

どうしても辛いある一夜を乗り越えるために、本が寄り添ってくれる力はとても強い。
もっと正確に言えば、「こちらから本の中へ没入させてくれる」力かもしれない。

聞きたくない声が頭から離れなくなってしまったとき。
それを遠ざけようとしたり、音量を小さくしようとすることは、逆効果である場合が多い。
小さくしよう小さくしよう、という意識は、余計にその音に注意を向けてしまう。
うまくいかない場合は余計なストレスになる。
仮に小さくできたとしても、微細な音にはより耳が研ぎ澄まされてしまうこともある。

だから、その声を避けようとすることよりも大切なことは、
「耳を奪われるほど素敵な別の何かに没頭する」ことだと思う。
そしてその一つの大きな手段が、「本」だと思っている。

逃避といえばそれまでだけど、耐えられなくなるくらいなら逃げればいい。

素晴らしい物語への没頭は、「いま、ここ」から何もかもを奪ってくれる。
知的好奇心は、人間の三大欲求すら越えることがある。

 

本も読めなくなったら

その読書すらできなくなることもある。
それまでどれだけ読書が好きだったとしても、信じられないくらいに読めなくなる。
心の逃し場所がなくなる。

そんな時に、何がその夜を乗り越えさせてくれるのか。

何もかも相談できる人がそばにいればいいかもしれない。
でも、誰もがそういう環境にあるというわけではない。
誰もがその強さを持っているわけではない。

確かなことは言えないのだけど、
30年にも満たない短い人生の中で、
一つ思い当たることがある。

 

「約束」

 

親との約束。
親友との約束。

約束が破られた時のその人たちの顔を思い浮かべる。
それだけで「耐えられるようになる」ほど生易しいものではない。

だけど「耐えざるをえない」と思うことはできる。

義務感でも綺麗事でも何でもいいから、その夜を何とか越えていく。
朝が来ることがとてつもなく怖くても。
また同じ夜を繰り返さなければいけない不安に押し潰されそうになっても。
壁に頭を叩きつけながらでもいいから、とにかく越えていく。

あるマラソンランナーが言っていた。

辛くなった時、
「あの電柱まで走ったら、もうやめよう」
と考える。

そしてその電柱にたどり着くと、
「あの看板のところ、あそこまで行ったら、今度こそ本当にやめる」
と考え直す。

その繰り返し。
そうやって自分を騙し騙しゴールまで進んでいく。

何もかも憂鬱な夜の乗り越え方は、それに似ているかもしれない。

 

まだ出会っていない素晴らしいこと

そんな風に乗り越え続けていくことが、決して楽なことではないのは分かっている。
根本的な解決にならず、ずっとその繰り返しから抜け出せないのでは、と思うこともある。

だけど、越え続け行った先に、もしかしたら、
諦めていたら出会うことがなかった素晴らしいものが待っているかもしれない。
その素晴らしいものに辿り着くには、やっぱり乗り越え続けなければならない。

俺が言いたいのは、お前は今、ここに確かにいるってことだよ。それなら、お前は、もっと色んなことを知るべきだ。お前は知らなかったんだ。色々なことを。どれだけ素晴らしいものがあるのか、どれだけ奇麗なものが、ここにあるのか。お前は知るべきだ。

-『何もかも憂鬱な夜に』中村文則

出遭ってしまった辛い出来事は誰にでもある。
今はなくても、これから必ず来る。

同時に、これから出会うかもしれない素晴らしいことだって、同じくらいきっとある。
意地悪なことにそれらはたいてい、辿り着くまで姿をはっきりとは見せてくれない。

だからこそ、そこまで自分の足で行ってみばければ。
それまで夜を乗り越え続けなければ。

未来の「まだ出会っていない素晴らしいこと」への希望を捨て去らないこと。
その希望を何とかこぼさないようにしながら、
「今をやり過ごす」ことができる場や方法を持つこと。

上に書いたように、必ずしも本がその役に立たないときもある。
でも、役に立つときもたくさんある。

何かあった時に「あれを読もう」と思える本を持っていることはとても大切だと、
いち本好きとしては思っているし、又吉さんもそう思っているのでは、と思う。

 

まさに今晩が、そういう夜である人たちのことを想像してみる。

その人たちがたまたまこの記事を見るようなことがもしあったら、
明日、又吉さんと中村さんのこの2冊の本を、本屋さんに買いに行ってみてください。

それだけを目標にするのでいいから、何とか今夜を乗り越えて。
本屋さんには、この2冊以外にも、たくさんの「素晴らしいもの」が詰まっているから。

2015年、最も心に残った13冊の本:その3(9〜13冊目)

2015年、最も心に残った13冊の本:その1(1〜4冊目)
2015年、最も心に残った13冊の本:その2(5〜8冊目)

のつづきです。

 

所属している出版社の本も入ってしまっているので(我が子のように好きでごめんなさい)、
ステルスマーケティングにならないように該当書籍には「」を付けてあります。

 

2015年、最も心に残った13冊の本:その3(9〜13冊目)

愛するということ』著:エーリッヒ・フロム

愛するということ

ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムによって書かれた名著です。

愛は本能的・自然的なものであるよりも、
能動的に行なっていく「技術」である

という主張で、原題も「THE ART OF LOVING」です。
(なので、もしかしたらなんとなく手を伸ばすのに抵抗がある人もいるかもしれません。)

僕は「自己愛」というものについて少し調べたいと思っていた時に、
パラパラとめくっていたらまさにその章があったので手に取りました。

自己愛の課題は、「愛情の対象が他者に向かず、自己にのみ向いてしまう」ことだと思っていました。
この本で気づかされたのは、「利己的な者はむしろ自分自身すら愛せていない」ということです。
自分を愛せないことによる空虚感・欠落感を埋めたいがために、人は利己的になってしまうのではないか。
欠落を埋めるために他人からの愛をひたすら求めてしまうと、
「自分が愛されるためには」ということばかりに目が向いてしまうかもしれない。
あるがままの自分自身を、他ならぬ自分こそがきちんと愛せていれば、
過度の承認欲求や自分を守ろうとする姿勢もとけてゆくのでは。

そんなことを思いました。

この本では他にも、
人間の成長段階に応じた愛や、歴史上の神への愛がどのように変遷してきたか、
などに関しても触れていて、とても興味深かったです。
長く読み継がれてきただけあるな〜と感じました。

 

「思考」のすごい力』著:ブルース・リプトン

「思考」のすごい力

好きな本に「量子力学」の話が出てくることが多くて、
学んでみようかと思っていた時にある方が貸してくださった本です。
ずいぶん長いこと手をつけられていなかったのですが(Fさん、ゴメンなさい)、
「年が明ける前に」と思って開いたらとっても面白かったです。
理系は苦手で、特に高校の時の「生物」の授業は苦痛だったので、
「生物学」の本を読む日が来るとは思っていませんでした。
が、アメリカンな著者のノリと、ユニークな例えや図を用いた科学的説明もあって、
この本は初学者である僕にも夢中で読ませてくれました。

テーマは、

人をコントロールするのは、遺伝子「ではない」。
遺伝子は設計図に過ぎず、遺伝子のふるまいを決めるのは、思考の力だ。

ということです。
この本で「エピジェネティクス(epigenetics)」という言葉を初めて知りました。
「遺伝学を超えた」といような意味です。

ものすごく端折って言うと、

・DNAは「染色体タンパク質」にカバーのように覆われているため、これが外れないと遺伝情報は発現しない
・そのタンパク質は外部環境によるシグナルによって変形する
・つまり、カバーが外れて遺伝情報が発現するか否かは、外部環境に大きく左右される

遺伝で全てが決まるのではなく、鍵を握っているのは(細胞の)外部環境だよ、ということです。
その外部環境として人の「思考」がものすごく大きな力を持っている、と繋がっていきます。
思い込みで偽の薬が効いてしまう「プラシーボ効果」は有名ですよね。
あれを始め、「マジかよ」な事例がいっぱい出てきます。
「ポジティブシンキングで人生は良くなる」みたいな話はあちこちで聞きますが、
細胞(よりももっと小さな)レベルでの科学的解説が満載なので、
知的好奇心の強い人にはとても面白いと思います。

 

出現する未来から導く――U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する』著:C・オットー・シャーマー 

出現する未来から導く――U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する

「U理論」というなかなか深遠な人や組織の変革理論があるのですが、
2015年はこれがすごく腑に落ちた年でした。
ご本人が意識されているかどうかは定かではありませんが、
尊敬している方の多くはこの変革プロセスに則っているなと感じたのです。

「U理論」の「U」は何かの頭文字ではなく、アルファベットの形自体が名前の由来です。
「一度下って、谷の向こう側へ登る」というイメージです。
それが実際どういう手順なのかはこの記事でざっくりとならわかると思います。

過去の経験から学ぶことももちろんとても重要です。
ですが、あまりに複雑な問題と向き合ったとき、
それだけではどうにもならないことが出てきます。
過去の経験にとらわれるがゆえにうまくいかないこともあります。

そんなときに「U理論」は、
「出現しようとしている未来から学ぶ」方法を提示しています。

これだけ聞くと「なんじゃそりゃ!?」って感じになると思いますが、
ちょっと振り返ってみて「ん?なんとなくその感じ分かるかも」という気がした方は、
学んでみるとすごく面白いと思います。
人と組織の問題を劇的に解決するU理論入門』が一番わかりやすいと思います。
(入門と言いながら400ページ以上あるのですが、本当に分かりやすいです)
最近では、『マンガでやさしくわかるU理論』なんていう本も出ています。
自分の外側の問題を解決する前に、内面のあり方をどう変えていくか、が鍵になります。

前置きが長いですが、『出現する未来から導く』は「U理論」提唱者のオットー・シャーマー氏の著書で、
実際の社会の中でこの理論を用いてどんな変革が起きているか、あるいは必要か、を説いています。
いわば、「U理論の実践編」と言えるかもしれません。
割と大きな(マクロ)視点で「社会を変えたい」と思っている人にオススメです。

たぶん2015年に一番精読した本で、
ほぼ全てのページにラインとコメントが入っていました。

 

ハドリアヌス帝の回想』著:マルグリット・ユルスナール

ハドリアヌス帝の回想

2015年、一番衝撃を受けたのはこの本だと思います。

古代ローマに「五賢帝時代」と呼ばれる時代があります。
優秀な皇帝が続いたということですが、そのうちの一人がハドリアヌス帝です。
この本は、病床にある彼が、後に皇帝になるマルクス・アウレリウス・アントニヌスに向けて綴った手記、
という形をとった小説です。

そうなんです、実際の手記じゃないんです。
なのに、読んでいるとハドリアヌス本人が綴っている独白録だとしか思えないんです。
もちろん史的事実は追っていると思いますが、これが小説とは…
いったい著者はどんな想像力と感性を持っているんだと度肝を抜かれます。
もはや憑依だと思います。

この凄まじい同化力を持つ著者は、マルグリット・ユルスナールというフランスの作家です。
余談ですが、本名はクレイヤンクール(Crayencour)で、
ユルスナール(Yourcenar)はアルファベットを並べ替えたアナグラムだそう。

巻末に収録されている「作者による覚え書き」というユルスナールのメモによると、
この本を発想して書き始めたのは、20歳〜25歳の時。
がしかし、この本は「40歳を過ぎるまではあえて着手してはならぬ類の著書」であると悟り、
執筆を中断します。
ユルスナールが生まれたのが1903年で、この作品が発表されたのが1951年なので、
書き終えた時にはだいたい48歳かな。
20歳から書き始めたことを考えると、中断期も含めて28年かけているんです。
まるまる僕が生きてきた年数と同じであり、
ネルソン・マンデラの投獄期間より1年長いです。

史実を追っただけの歴史家にも、想像力に頼っただけの作家にも、
決して辿り着けない領域だと感じました。
文体は決して現代人にとって簡単なものではありませんが、非常に味わい深く、
一度リズムに乗り出すとたまらないです。
この記事では中身に全然触れていませんが、深い教訓に満ち溢れています。

図書館で借りて読み終わって、「あ〜手元に欲しい」と思っていたら、
その直後に古本屋さんで、書店では手に入らないであろう旧版を見つけて即買いしました。
今では線だらけになっています。
(でも装丁は新装版の方がかっこよくて好きです。)

 

自省録 』著:マルクス・アウレーリウス

自省録 (岩波文庫)

上記の本でハドリアヌス帝が宛てた相手こそが、
この『自省録』の著者マルクス・アウレリウス・アントニヌスです。
おそらく、世界史で習う最も長い固有名詞じゃないでしょうか。
スリランカの首都スリジャヤワラダナプラコッテより2文字も多いです。

彼はストア哲学に傾倒し、哲人皇帝と言われています。
「哲学者の手に政治をゆだねることが理想だ」と言ったプラトンに従えば、
まさに「賢帝」だったのでしょう。(五賢帝時代最後の皇帝です)

原題の「TA EIS HEAUTON」の意味は、
岩波文庫(1956年)の訳者まえがきでは「自分自身に」
Wikipedeiaでは「彼自身へ」となっています。
(本人が付けた題なのかは定かではありません)

ということで、この本は彼が自分自身へ語りかけたメモ録です。
なのでストーリーはなく、短い断片的な思索がまとまっている形式です。
自分自身に語っているのですが、「君は」という書き方をするので読んでいてドキッとします。
ストア学派は「ストイック」の元々の意味でもあるので、
書かれていることは非常に禁欲的で厳格です。
ちょっと自分を戒めたい時に良い薬になります。

・失いうるものは「現在」だけであり、生きられるのも「現在」だけである
・外部の事象を解釈するのは「主観」であり、それは自らの力で変えられるものである。
・すべての事象は宇宙の自然が為すものであり、一瞬も早くなく、一瞬も遅くなく、起るべくして起る
・コントロールできるものに対しては真摯で建設的な姿勢を、コントロールできないものには委ねる心を

全体的にそんなメッセージを受け取っています。

この本は2013年にも読んでいて再読だったのですが、再読時の方が響きました。
初読時にしかない刺激というものももちろんあります。
でも、その時々の心情で受け取り方は変わってくるので、
良い本は繰り返し読むべきですね。

品位を失いかけている時は、いつもこの言葉を思い出すようにしています。

今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、
つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。
曰く、

「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」

 

 

 

 

 

以上、「2015年、最も心に残った13冊の本」でした。

2015年、最も心に残った13冊の本:その1(1〜4冊目)
2015年、最も心に残った13冊の本:その2(5〜8冊目)

 

 

2016年も素晴らしい本に
たくさん出会えますように。

 

 

ご紹介した本一覧