虹色選書

無条件に人にすすめられる冒険記:『星野道夫著作集1(アラスカ 光と風 他)』

本を愛してやまないからこそ、「おすすめの本は?」と聞かれると悩んでしまう。

なんでもそうだけど、goodかどうかよりも、大事なのはfitかどうか。その人の性格、状況、求めるものによって、fitは変わってくると思う。だから、そういう色々を聞いてみないことには、「おすすめ」はなかなか答えるのが難しい。

…と、そんな風に頭でっかちに考えてしまいがちなのだけど、ときどき、その人の性格とか状況とか関係なく、多少強引にでも無条件にすすめたいと思う本に出会う。

星野道夫著作集 1 アラスカ 光と風 他』は、間違いなくそんな一冊だった。

 

星野道夫著作集〈1〉アラスカ・光と風 他

星野道夫著作集1 アラスカ 光と風 他』星野道夫著、新潮社

 

アラスカの大自然に身を捧げた写真家・星野道夫さんの行動力は凄まじい。

10代のときに神田の洋書店で見つけたアラスカの写真集。そこに載っていた1枚の写真に写っていたのは、小さなエスキモーの村「シシュマレフ」。この写真に心奪われ、どうしても訪ねてみたいと思った星野青年は、村長に手紙を送る。半年後に返ってきた「受け入れOK」の手紙に導かれてアラスカへ渡り、結局星野さんはそこに居を構えてしまう。

 

写真家の本でありながら、この全集には一切写真がない。

収録された各作品の元々の書籍には写真が載っていたそうだけど、ここにはあえて収録されていない。だからこそ、文章家としても稀有な才能を発揮できる星野さんのすごさが伝わる。

短文、短文のシンプルなリズムの中で、星野さんは言葉を飾らない。ワクワクする予感に正直で、信じられないような行動力を持っている。危機感を、常に探究心が上回っている。文章は少年のような好奇心に満ちているから、ときどき旅の記録の中にいる星野さんの年齢がわからなくなる。

かと思うと、突然プロのカメラマンの目線に移って、大自然や人間の本質を鋭く見抜いたりする。

 

そんな星野さんによって紡がれる言葉から、想像を絶するアラスカの大自然が浮かびあがってくる。

村人総勢で2時間かけて陸上に引き上げ、体を切り裂けば極寒の地に湯気が立ち上る鯨漁。
爆音を轟かせ、津波のように極北の海をうねらせる巨大氷河の崩壊。
体感温度マイナス100度の山中でカメラを構えて一ヶ月待ち、闇夜の中で恐怖を感じるほどの閃光を放つオーロラとの孤独な対峙。

凄まじい臨場感だった。人の力が一切敵わないようなダイナミックな世界が、今この瞬間も地球のどこかにあると思うと、自分の両目で見えている光景なんて砂つぶのようで、知っている世界はなんて狭いのだろうと思う。

 

ところどころに挟まれるグリズリーとのエピソードは、その後の星野さんの運命を暗示しているかのようで、映画の中で現れる伏線を見ているようだった。

人間と熊が適切な距離さえ保っていれば、無闇にライフルの引き金を弾く必要はない。そんな信念から、星野さんはほとんど銃を携行しなかった。だけど、まさにその熊によって最期を迎えることになる。享年43歳。

星野さんを襲った熊は、人間によって餌付けされ、人間との距離感を失っている個体だったそう。

あまりにも皮肉だと思う。同時に、不謹慎承知で言えば、ドラマティックであるとすら感じてしまった。なんという人生を送ってきた方なんだろう。

 

自分の知らないスケールの世界に圧倒されたい気分の時には、ぜひ多くの人にこの本を読んで欲しいと思った。この本は、読後の教訓など必要なく、ただただアラスカの迫力に没頭できればいいと思う。全集は厳しいという場合は、『アラスカ 光と風』だけでも。秋の夜長にぜひ。

その代わり、冒険心に駆られて、興奮して眠れなくなるのには要注意です。

誰かに手渡したいと心から思える本だった。

見えないリレーの中で込められていく思い:『本を贈る』

何かが受け手に届くまでの間には、多くの人たちの、多くの手間とこだわりがこめられている。たいていの場合、受け手のあずかり知らぬところで。

それはきっと、本に限ったことではない。この本を読むと、本に対しても、本以外のものに対しても、それが手元に届くまでの物語に思いを馳せずにはいられなくなると思う。

 

本を贈る
本を贈る』(笠井瑠美子 / 川人寧幸 / 久禮亮太 / 島田潤一郎 / 橋本亮二 / 藤原隆充 / 三田修平 / 牟田都子 / 矢萩多聞 / 若松英輔著、三輪舎)

 

この本は、編集、装丁、校正、印刷、製本、取次、営業、書店…と、読者に本が届くまでのリレーの各区間を担うプロフェッショナルたちのエッセイ集。出版業界にいる人間として、どの方のお話にも背筋が伸びる思い。

誰もが、著者の思いが届くべき人に届くべき姿で届くように、大事なことが零れ落ちてしまわぬように、丁寧に丁寧に仕事をしている。著者の言葉だけではなく、言葉にならない言葉にまで寄り添おうとしている。

この本を読みながら、自分の手に乗っているまさにこの本に対して、敬意と愛着が増していくのをひしひしと感じられた。印刷技術の発達の要点は大量生産にあると思うのだけど、今自分が手にしているこの本が、たった一冊しかないものすごく稀有なものであるような気さえした。

本書の中で藤原隆充さんが仰る「1000冊の仕事ではなく、1冊×1000回の仕事」という言葉に触れてしまうと、「作品」としての本の姿が色濃くなり、大切に読みたい、置いておきたいという思いがぐっと強まる。

 

独立して活動されている方々が多く、実は起業家精神も学べる本だと感じる。どなたも間違いなくパッションがあるのだけど、暑苦しく息苦しくなるような文体のものはなく、言葉を受ける以上に、自分側から入っていけるようなものばかりだった。

本全体を通じて、肩ひじ張らず、とても心地よい読書感だった。本自体の重量や紙質も、それを手伝ってくれたと思う。ずっと手に持っていたくなるような感覚。

 

 

すてきな本を世に送り出してくださり、どの執筆者にも、製作過程のどの関係者にもお礼を伝えたいくらいの気持ちだけど、個人的には、やはり橋さんへ。

橋さんの、本への、書店さんへの、書店員さんへの思いには、橋さんの発信を見るたびにいつも胸を打たれていました。あの人への2年越しの思いも、書いてくださり感謝です。しっかり胸に刻みました。来月12日に、もう一度読もうと思います。

ご出版、おめでとうございました。

自分を取り繕う余裕すらなくなる挑戦の価値:『ランニング思考』

慎さんには遠く及ばないけど、僕も100kmマラソンを走ったことがある。「なんでわざわざ長い距離を走るの?ただ走るだけで楽しいの?」という質問を散々受けた。かつては自分も陸上をやっている人たちに対して同じことを思っていたので、問いたくなる気持ちはよくわかる。苦しいだけで、何が楽しいのかと。

ましてや、慎さんのように「本州縦断1648kmマラソン」ともなれば、もはや狂気の沙汰にしか思えないかもしれない。だけど実は、この極限体験の中に、体力だけでなく人間性を磨く上で大事なことがたくさん詰まっている(と、少なくともマラソン好きからしたら心底そう思える)。

 

ランニング思考──本州縦断マラソン1648kmを走って学んだこと
ランニング思考──本州縦断マラソン1648kmを走って学んだこと』(晶文社)

 

特にこの本の中で共感したのは、極限常態の中で生まれる二つの心情の変化について。

 

一つは、「自己顕示欲がなくなる」ということ。

信じられないほど苦しい。苦しいのだけど、苦しさのあまり、もはや周りの目がどうでもよくなる。かっこつけている余裕がない。素の自分である以外の余裕がない。慎さんも書いているように、とても「穏やか」な気持ちになる。

年齢を重ねるごとに、未熟さに対する恥じらいの気持ちや、年相応の貫禄への憧れなど、本当はあまり必要ではない、むしろ邪魔になる気持ちが芽生えてくる。どちらも、自分を強く見せようとする隠れ蓑。自分を取り繕う余裕すらなくすほどのぎりぎりの挑戦というのは、そんな自分をもう一度真っ裸にしてくれる。

 

もう一つは、「謙虚になる」ということ。

走っている最中、自分ではコントロールできないことと山ほど出くわす。予想外の怪我、荒れる天候、心折れるのぼり坂…(慎さんの走行記を読めば、こっちまでげっそりするくらいに痛感すると思う)。どんなに練習を積んで自分側を鍛えても、否応のないものと対峙しなければならない瞬間が必ずくる。

たいていはまず、愚痴がこぼれる。「雨ふざけんな」とか「なんでこの辛い時にのぼり坂があんねん」とか。でも最終的には、「やるべきことは一つしかない。変えることのできないこの環境に対して、いま自分にとってできることは何か」という心に落ち着く。

どうにもならない自然への敬意も芽生えるし、ちっぽけな自分を支えてくれるボランティアや応援者の人たちへの感謝の気持ちも強まる。自分を過小評価する自己卑下ではなく、すべてを敬う本当の謙虚さと出会える。そんな気がする。

 

総じて、「あるがままの自分で、そんな自分にできることを一つずつやるしかない」という気持ちになれる。だから、変に強がったり、愚痴ばかり言っていたり、そういう状態になりかけたときは、このスポーツは心からおすすめ。素直に、謙虚に、あるがままになるために。

本の最後にも書かれているけど、極限体験で学んだことを、日常に落とし込むことは本当に難しい。あっという間に走る前の自分に戻ってしまっているようにも思える。「また走りたい」と思うことがそもそも、「あのとき学んだ気持ちにまた戻りたい」という気持ちの表れで、やはりせっかくの学びを活かしきれていないのだろうなと感じる。そうやって、終わることなくいつまでも走り続けていくのかもしれない。

 

この本を読むと、十中八九、慎さんが超人に見えると思う。毎日熱や怪我を抱えながらフルマラソン以上の距離を走り続ける。しかも、走りながら仕事のSkypeミーティングをしている。ウルトラマラソン経験者から見ても次元が違い、凄すぎて読みながら笑ってしまった。

でもおそらく、超人的に見られることよりも、弱さを抱えながらも挑戦し、そんな自分を超えたり許したりしながら人として成長していく、そういう面に焦点を当てた方がよいのだと思うし、その克己し続けていく姿こそが、この本の一番の魅力だと思う。

 

9月。7年前のちょうどいまくらいの時期に、自転車の旅で慎さんのルートと同じ日本海側を爆走していた。逆方向ではあるけど、あそこのトンネルの怖さとか、あそこのコンビニのなさとか、あそこの峠道のやばさとか、とても懐かしい気持ちで読んでいた。冒険の高揚感が蘇ってきた。

走ることによる内面的な変化を知ろうと思ってこの本を手に取ったのに、具体的な走り方や工夫のところにもいっぱい傍線を引いてしまっていた。おそらく僕自身、いままた走りたがっているのだと思う。

 

▼以前挑戦した、宮古島100kmマラソンの記録
ウルトラマラソン挑戦記〈5〉:宮古島100kmワイドーマラソン

優しい子に育てるには、まずは自分が優しい人であれ:『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』

ほぼ日の対談を読んでとても気になっていた幡野広志さん。34歳にして、多発性骨髄腫を発病し、余命3年を告げられた写真家。2歳の息子を持つ。

 

ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。
ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』(PHP研究所)

 

死を前にした人の言葉とは思えないくらい、悲壮感はなく、冷静で、でもあたたかい。優しく、でも厳しくもある。一貫して感じたのは、本当に真っ正直な方だということ。外向け用の言葉ではなく、全部本心で書かれていると強く感じたし、そこが一番魅力的だった。

この本は、子育てをしている人にも多く読まれるのだと思う。だけど、「子どもをどうするか」という他動詞の本ではなく、「自分がどうあるべきか」という自動詞(というかbe動詞)の本だと感じた。優しい子に育てるには、まずは自分が優しい人であれ。まずは自分自身がその理想の姿であろうとすることをとても大事にされている。

ある章で、幡野さんのライフワークの一つでもある、生々しい狩猟のシーンが出てくる。描写が半端ではなく、動物を撃ったときの鼓動、高揚感、血の匂い、内臓の熱が、その場にいるかのような感覚で伝わってきて、実はこの本の中で一番「命」というテーマを感じた。この方の、このテーマの本を読んでみたいと思うくらい。

もっと知りたい、経験したい、という世界への好奇心が素敵だった。読んでいて、自分ももっと世界を広げたいという思いに駆られた。

将来幡野さんのお子さんがこの本を手に取ったときも、きっとそんな思いを持つと思います。書いてくださって、ありがとうございました。

新しい挑戦のために、代表作を捨てる。:『世界のなかで自分の役割を見つけること』

小松美羽さんというアーティストを、この本で初めて知った。

 

世界のなかで自分の役割を見つけること――最高のアートを描くための仕事の流儀
世界のなかで自分の役割を見つけること――最高のアートを描くための仕事の流儀
(小松美羽著 / ダイヤモンド社)

 

まず、冒頭の口絵に載っている小松さんの代表作品が本当にやばい。半端ない。これは半端ないって…
開いた口がふさがらないくせに、言葉をなくす。

ご本人のたたずまいからも、「巫女さんのようだ」と感じていたけど、本文を読んで、やっぱりそうだと実感。見えない世界(小松さんには見えているよう)と現世の間に立って、通路となる作品を描く。そんなイメージ(村上春樹の作品に感じるものと似ている気もする)。

小松さんの生きざまもとても刺激的だった。

新しい挑戦に踏み出すために、「自らも一度死んで、再生する必要がある」との思いから、なんと代表作である『四十九日』の原版を切断(冒頭の口絵で僕が圧倒されていた作品)。後戻りしないこの覚悟、凄まじいと思った。

小松さんの作品の展示があれば、必ず行こうと思う。

もとに戻ることがすべてではない。:『傷を愛せるか』

「待っていてくれた」ような本

傷を抱えながら生きるということについて、学術論文ではこぼれおちてしまうようなものを、すくい取ってみよう。

あとがきに書かれている著者の言葉。まさにそれを体現した一冊だった。いろいろな思いがすくい取られたので、少しまとめてみる。

傷を愛せるか
傷を愛せるか』(宮地尚子著 / 大月書店)

医者のように、専門性を備え、弱い立場にある人たちと向き合う仕事では、治療者側が感じる無力感や罪悪感を表に出してはいけない…なんとなく、そんな「強がらせ」のような固定観念や空気感がある気がする。

そんな中で、精神科医であり教授でもある著者の宮地さんは、自身も傷つくということを隠さない。その痛さ、もどかしさ、無力感に蓋をしていない。そんな風に思えた。

だから、言葉がすごく「近い」。医者や研究者らしく客観的であるよりも、主観や実感が伴う洗練された言葉が紡がれていて、とてもやさしい。

なんとなく、「待っていてくれた」と感じる本だった。

 

「傷そのもの」よりも、「傷の周辺」の痛み

アカデミックではなく、短編のエッセイ集という形の本なので、とても読みやすい。どの章にも感銘を受けたけど、その中で特に「ヴァルネラビリティ(脆弱性)」に関する考察はすごく考えさせられた。「男性の性被害と社会政策」というテーマで研究をしていた著者は、こんなことを書いている。

男性の被害者を見ていると、性被害そのものよりも、そのために傷ついた「男らしさ」を必死で取り戻そうとすることのほうが、逆に傷を深めていってしまうという印象を受ける。(中略)ヴァルネラブルであってはいけないという縛りこそ、ヴァルネラビリティになってしまうという逆説が、そこにはある。(p.110)

傷に付随する焦燥感や圧迫感。そこから新たな傷が生まれていく。多くの人が本当に苦しむのは、「傷そのもの」以上に、「傷の周辺」なのではないかと思った。

傷病者に対する励ましの言葉の中に、「そんな傷、大丈夫だよ」「私も同じ病気をしたけど、大丈夫だったよ」という声がある。声をかけられた人の状況や、声をかけてくれた人との関係性によって、「そうか、大丈夫なのか」と安心できることも、もちろんあると思う。

だけど時に、その言葉をかける人が見ているのは「傷そのもの」だけになっているような気がして、とても診断的に聞こえてしまうことがある。傷病者が抱える、その人ごとに違う「傷の周辺」の苦しみを見ようとしているのだろうか。医学的・科学的に診断することのできない「傷の周辺」に寄り添おうとしているのだろうか。時々そんな風に思うことがある。

その人の「傷の周辺」で、何が起きているのか。どんな感情が巻き起こっているのか。その視点を忘れたくない、と強く思った。

 

何重にも覆いかぶせてきた黒い布の外側に、包帯を巻く

上記の引用の中でもう一つ、「必死で取り戻そうとする」という言葉が気になった。何事においても、「戻りたい」「取り戻したい」という衝動と向き合うには、大変なパワーがいると思う。

それを備えていられた頃との落差による、どうしようもない無力感。今の自分ではダメだという焦燥感。「こうありたい」という未来への希望ではなく、「こうあるべき」という過去への義務感、それに付随する疲弊感。「取り戻したいと思うほど過去の自分は優れていたのか」という、ちらつく傲慢さに対する猜疑心と嫌悪感。

そういう負の気持ちが増幅していって、まさに「ヴァルネラブルであってはいけない」という重圧から、よりヴァルネラブルになって自滅していく。

自分が痛んでいること、それ自体に対する罪悪感を抱くこと。罪悪感に囚われている自分を見て、さらに嫌悪感に染められていくこと。そうやって、何重にも自分を苦しめる思考が覆いかぶさっていくこと。

この連鎖ほどつらいことはない、と思う。

「弱さ」や「傷」を、いけないもの、恥ずべきことだと思わないでいい。いけないもの、恥ずべきことと思わずにはいられない自分がいるのなら、そんな自分をも包むようにいたわればいい。ヴァルネラビリティも含めて、すべて抱えたままでいい。

そんな感覚が、この本を読み進めるにつれてじわじわと染み込んできた。

「抱えたまま」でいるのであれば、相変わらず傷は痛むのではないか、とは思う。だけど、連鎖のどこかで「それすらも抱えたままでいていい」と思うことができれば、次々と覆いかぶさってくる自己卑下は、止まるときがくるかもしれない。真っ黒な布を何重にも覆いかぶせてきたその外側に、「もう十分だよ」と、柔らかい包帯が巻かれる。そうして、「ああ、もういいんだ」と思えるときがくるかもしれない。

そういう希望の兆しを与えてくれる本だと思った。

 

もとに戻ることがすべてではない

震災以降、「もとの状態に戻る力」「困難から立ち直る力」というような意味で、「レジリエンス」という言葉に注目が集まった。いくつかの本を読んでみた中で、『レジリエンス 復活力−あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か』(アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー著 / ダイヤモンド社)でなされていた定義が今でも記憶に残っている。

生態学と社会学の分野から表現を借用し、レジリエンスを「システム、企業、個人が極度の状況変化に直面したとき、基本的な目的と健全性を維持する能力」と定義する。(p.10)

「もとに戻る力」以上に、基本的な目的や健全性を「維持する力」であると語られているのは、とても印象に残った。

築きあげてきた家が崩れたのであれば、家をもとの姿のままに立て直し、再現すること(=もとに戻る力)がすべてではない。「安心して暮らせる場所が欲しい」という基本的な目的を思い出せば、「今の」自分にとっての安心に基づいた、新しいタイプの家を建てることに目が向くかもしれない。

落ちてしまった崖を、落ちてきた方向(取り戻したい過去の方向)に登り直すのではなく、未知である反対側の崖を登ってみる意志が生まれるかもしれない。もしくは、崖の下でも暮らしていける方法を見つけ、適応することができるかもしれない。

もとに戻ることがすべてではない。傷をもとに戻すことがすべてではない。少なくとも、「戻さなければ」という重圧に押されて、余計に苦しくなる必要や義務はない。呪縛を解くことに焦らず、まずは呪縛の連鎖をそっと止める。もとの姿に執着するよりも、本当に維持し続けるべき目的と健全性を思い出し、「今」の道を見つける。

もとに戻ることがすべてではない。きっと。

この辛い夜を「何とかやり過ごす」の繰り返しでも:『夜を乗り越える』『何もかも憂鬱な夜に』

芸人であり、話題の『火花』の著者、又吉直樹さんの読書に関するエッセイ。

 

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

 

タイトルを見た瞬間、中村文則さんの『何もかも憂鬱な夜に』を思い浮かべた。

 

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

 

眠れなくて、つらい夜。そういう人達が集まり、焚き火を囲み、同じ場所にいればいい。深夜から早朝にかけて、社会が眠っている中で、焚き火の明かりの元に、無数の影が集まればいい。そうやって、時間をやり過ごす。話したい人は話し、聞きたい人は聞き、話したくも聞きたくもない人は、黙ってそこにいればいい。焚き火は、いつまでも燃えるだろう。何もかも、憂鬱な夜でも。

-『何もかも憂鬱な夜に』中村文則

友人にすすめられて読んだ本。
本当に「焚き火」のような物語だった。

同書の解説を書いているのは又吉さんで、随分思い入れの強い本だっだそう。
だから新刊のタイトルが『夜を乗り越える』になったのはとても頷けるし、
最後にはやはり、中村文則さんのこの本が登場する。

 

その夜だけ乗り越えていたら…

近代文学を好んで読む又吉さんは、太宰治や芥川龍之介の著書を多く紹介している。

二人とも、自ら命を絶っている。

又吉さんにとって切っても切り離せない二人だったからこそ、
この本の中でこう語っている。

その夜だけ乗り越えていたら

-『夜を乗り越える』又吉直樹

「今日死のう」と考えた、まさにその夜のこと。
その夜さえ乗り越えていたら。

「その一夜を乗り越える」、いつまで続くかわからない苦悩の中では、
それこそが苦痛であるかもしれない。
その夜「だけ」乗り越えても、やはり次の夜にはダメだったかもしれない。
だけど結局、「今晩だけ乗り越える」の繰り返しを積み重ねていくしか他にない、
という期間もあると思う。

辛い時間を「やり過ごす」というのは、消極的な姿勢に聞こえるかもしれない。
でも耐え難い辛さの真っ只中いる人にとっては、
「やり過ごす」ことだけでも、とても積極的な姿勢だと僕は思う。

芥川龍之介や太宰治が優れた表現者であったから、
又吉さんはこうも語っている。

芥川のような、これだけ才能があって、こんな小説を書いた人なのだから、そういう自分の気持ちを解体して、この「死にたい」は、文学で言ったらどういう言葉なんだろうと、そのことを小説で書いて欲しかったと思います。

-『夜を乗り越える』又吉直樹

その苦しみさえ、作品にしてしまえていたら。

2014年に国際アンデルセン賞を受賞した物語作家の上橋菜穂子さんは、
著書の中でこんなことを語っていた。

つらいことに出会ったときは「いずれ作家としてこの経験が役に立つ」--いつも、そう思っていました。作家の性というのは、妙にしたたかなもので、愛犬が死んだときも、悲しくて悲しくて涙がとまらないのに、その悲しみを後ろから傍観者のように見ている自分がいたりするのです。

-『物語ること、生きること』上橋菜穂子

苦しみや悲しみを、苦しみや悲しみのままに受け止める期間も大切。
だけとどこかの時点で、全てを表現への糧にしてしまう。
個人的にも、それにはとても憧れてしまうことがある。

 

夜を乗り越えるための本

どうしても辛いある一夜を乗り越えるために、本が寄り添ってくれる力はとても強い。
もっと正確に言えば、「こちらから本の中へ没入させてくれる」力かもしれない。

聞きたくない声が頭から離れなくなってしまったとき。
それを遠ざけようとしたり、音量を小さくしようとすることは、逆効果である場合が多い。
小さくしよう小さくしよう、という意識は、余計にその音に注意を向けてしまう。
うまくいかない場合は余計なストレスになる。
仮に小さくできたとしても、微細な音にはより耳が研ぎ澄まされてしまうこともある。

だから、その声を避けようとすることよりも大切なことは、
「耳を奪われるほど素敵な別の何かに没頭する」ことだと思う。
そしてその一つの大きな手段が、「本」だと思っている。

逃避といえばそれまでだけど、耐えられなくなるくらいなら逃げればいい。

素晴らしい物語への没頭は、「いま、ここ」から何もかもを奪ってくれる。
知的好奇心は、人間の三大欲求すら越えることがある。

 

本も読めなくなったら

その読書すらできなくなることもある。
それまでどれだけ読書が好きだったとしても、信じられないくらいに読めなくなる。
心の逃し場所がなくなる。

そんな時に、何がその夜を乗り越えさせてくれるのか。

何もかも相談できる人がそばにいればいいかもしれない。
でも、誰もがそういう環境にあるというわけではない。
誰もがその強さを持っているわけではない。

確かなことは言えないのだけど、
30年にも満たない短い人生の中で、
一つ思い当たることがある。

 

「約束」

 

親との約束。
親友との約束。

約束が破られた時のその人たちの顔を思い浮かべる。
それだけで「耐えられるようになる」ほど生易しいものではない。

だけど「耐えざるをえない」と思うことはできる。

義務感でも綺麗事でも何でもいいから、その夜を何とか越えていく。
朝が来ることがとてつもなく怖くても。
また同じ夜を繰り返さなければいけない不安に押し潰されそうになっても。
壁に頭を叩きつけながらでもいいから、とにかく越えていく。

あるマラソンランナーが言っていた。

辛くなった時、
「あの電柱まで走ったら、もうやめよう」
と考える。

そしてその電柱にたどり着くと、
「あの看板のところ、あそこまで行ったら、今度こそ本当にやめる」
と考え直す。

その繰り返し。
そうやって自分を騙し騙しゴールまで進んでいく。

何もかも憂鬱な夜の乗り越え方は、それに似ているかもしれない。

 

まだ出会っていない素晴らしいこと

そんな風に乗り越え続けていくことが、決して楽なことではないのは分かっている。
根本的な解決にならず、ずっとその繰り返しから抜け出せないのでは、と思うこともある。

だけど、越え続け行った先に、もしかしたら、
諦めていたら出会うことがなかった素晴らしいものが待っているかもしれない。
その素晴らしいものに辿り着くには、やっぱり乗り越え続けなければならない。

俺が言いたいのは、お前は今、ここに確かにいるってことだよ。それなら、お前は、もっと色んなことを知るべきだ。お前は知らなかったんだ。色々なことを。どれだけ素晴らしいものがあるのか、どれだけ奇麗なものが、ここにあるのか。お前は知るべきだ。

-『何もかも憂鬱な夜に』中村文則

出遭ってしまった辛い出来事は誰にでもある。
今はなくても、これから必ず来る。

同時に、これから出会うかもしれない素晴らしいことだって、同じくらいきっとある。
意地悪なことにそれらはたいてい、辿り着くまで姿をはっきりとは見せてくれない。

だからこそ、そこまで自分の足で行ってみばければ。
それまで夜を乗り越え続けなければ。

未来の「まだ出会っていない素晴らしいこと」への希望を捨て去らないこと。
その希望を何とかこぼさないようにしながら、
「今をやり過ごす」ことができる場や方法を持つこと。

上に書いたように、必ずしも本がその役に立たないときもある。
でも、役に立つときもたくさんある。

何かあった時に「あれを読もう」と思える本を持っていることはとても大切だと、
いち本好きとしては思っているし、又吉さんもそう思っているのでは、と思う。

 

まさに今晩が、そういう夜である人たちのことを想像してみる。

その人たちがたまたまこの記事を見るようなことがもしあったら、
明日、又吉さんと中村さんのこの2冊の本を、本屋さんに買いに行ってみてください。

それだけを目標にするのでいいから、何とか今夜を乗り越えて。
本屋さんには、この2冊以外にも、たくさんの「素晴らしいもの」が詰まっているから。